2000 / 11

 

11 / 01

アメリカでの野球(やきゅう)のチャンピオンシップが日本でも 中継されていた。 「ワールドシリーズ」という名前もアメリカらしく楽天的でよい。

私は少し違う楽しみ方をしている。ベンチの中の顔だ。 コーチや監督など歳をとった人々は、なかなかいい顔をしている。 昔のハリウッドの脇役達の顔だ。

顔にも流行はあるようで、選手達の顔は、現代風に洗練(せんれん) されている。
いい顔は多いが、昔のハリウッドで言えば、 三流のファミリードラマで、長女のボーイフレンド役といった ところがせいぜいだ。
これは、今のハリウッドの役者にも通じることだ。

それに引き換え、コーチ陣(じん)の顔はいい。歳をとればとるほど いい。
ヤンキースのドン・ジマーなんてしびれますね。
こんな顔がアメリカには残っていたのか! というほどだ。

旅行をしていて、ふと観光地から外れた所へ行くと、こういう顔に 出会うことがある。 映画的な顔、テレビ的な顔、と分けることができるかもしれない。

 

2000 / 11

 

11 / 02

ヨーロッパから日本へ来た人が違和感(いわかん)を感じることの ひとつが、室内での照明(しょうめい)だそうだ。

日本では会社、学校だけではなく、レストランや家庭のリビングなどでも 蛍光燈(けいこうとう)の白い灯(あかり)が使われる。 蛍光燈のほうが効率がよく、コストがかからないことから一般的に なったようだ。

外国料理のレストランなどを日本に作る時に、最初に問題になるのが 照明らしい。 人が入らない理由が薄暗い照明にあることに気付かずに、潰れてしまう レストランもあるとのことだ。

しかし、このように何でも明るくするようになったのは、最近のことで 元々、日本の美術や建築は、薄暗い照明が前提となっていることが多い。
掛(か)け軸(じく)や生け花などは、蛍光燈の元で見るものでは ないようだ。

戦後、日本は明るさを得たのか、暗さを失ったのか、議論(ぎろん)の 分かれるところだ。

 

2000 / 11

 

11 / 07

アメリカの大統領選挙は、日本でも連日のように報道されている。

もちろん、「今後の世界の趨勢(すうせい)に影響を与える、大きな 政治的な事件」だからではなく、ネクタイの色や、討論(とうろん)の 時の表情、候補者(こうほしゃ)のキスなど、まるで未開(みかい)の 地の奇異(きい)な風習(ふうしゅう)を紹介するといったかんじだ。

討論には、アジアのことなどは、まったく出てこないようだ。
今回に限ったことではないが。

いっそのこと候補者は、会社を作り、ナスダックに株式を公開して 株価で大統領を決めるのはどうだろうか。 まあ、結局、噂やスキャンダルで株価が上下したり、サイト上で プライベートの写真を見せられたりと、あまり代わり映えがしないことに なるかもしれないけれども。

 

2000 / 11

 

11 / 08

日本は学歴社会だとよく言われる。

韓国や中国も似たような文化を 持ち、中国で古くから用いられてきた科挙(かきょ)という官僚 (かんりょう)の試験に影響を受けているという人もいる。

子供のころから点数で順位を示されていくと、負けず嫌いという性格 が育つ。

しかし、この負けず嫌いには、勝ちたいという気持ちと、負けたくない という気持ちが含まれている。
どうも、私の見たところ、日本では 負けたくない、という気持ちのほうが勝っているようだ。

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音楽や映画を体験することは、ある意味では、心地よい負けを経験する ことかもしれない。

ゴダールのようにキャメラをまわすだけで、映画になってしまう人もいる。
チャーリーパーカーのようにドレミと吹くだけで音楽になる人もいる。

試験の競争に勝ちのこってきた人々は、芸術にうとい、という人が多い。

 

2000 / 11

 

11 / 09

日本では英語を勉強する時に、最初に名前の書き方を勉強する。

家族の名前が やまだ。 下の名前が ひさし。 の場合、
Hisashi Yamada と英語の名前の順番に合わせて逆に書く。

子供の頃は、この順番に違和感(いわかん)を覚えるというよりも 異文化(いぶんか)の心地よい感触(かんしょく)を味わった記憶が ある。

今年、政府(せいふ)の機関(きかん)が、名前の順番は、日本式に 書くように子供に教えると発表した。
韓国、中国などでは、昔から、この順番だそうだ。
この違いも考えてみると面白い。

英語の名前の書き方を習うのは15才ごろだから、彼等が大人になるまで 社会の多数派になるまでは、あと15年ほどかかる。

しばらくは、人によって順番が違ったりと混乱することになるかも しれない。

 

2000 / 11

 

11 / 10

普通の男女の普通の会話

「よお、どうしてた? あ、髪型(かみがた)変えたね」
「ああ、元気? うん、気分 転換(てんかん)にね」
「パーマかけたのか、う〜ん、似合うけど、前のほうがよかったな」
「今どき『パーマかける』なんて言わないの。前ってストレートの時のこと?」
「そうそう、いや、でも今のもいいよ」

「ここんとこ何してたの」
「月並(つきな)みだけど仕事かなあ、メールにも書いたけど、失敗 しちゃって
  ね」
「ああ、そうだったわねえ、土日も忙しかったの」
「うん、土曜出勤で、日曜は疲れて寝てた」
「そう。あ、そうだ、先週、洋子(ようこ)と映画見たよ。
オータムイン
  ニューヨーク」
「ああ、あれか。女二人で?」
「そう、カップルばっかりだったわよ」
「つまんなかったろ?」
「そうなのよ。。。」
「ああいう映画は、やっぱり映画館で手握ったりするためにあるんじゃないか」
「ああ、そうかもね。高校生か、大学生あたりのカップルがね」

まあ、好きな人と、こういった、どうでもいい話しをしているのが 幸せなことだと私は思いますね。

 

2000 / 11

 

11 / 14

アメリカの大統領選挙は、まだ決まらないようだ。

民主主義にとって、正確な数字は意味のあるものだけれど、常に誤差 (ごさ)は、ついてまわるものだ。 民主主義(みんしゅしゅぎ)の不備(ふび)はどこにもあることで どこの国の制度がより民主主義的か、といった議論は不毛(ふもう) かもしれない。

しかし、どちらが大統領になったとしても、これから4年間の選択肢 (せんたくし)は限られているような気がする。
あと4年くらいは、景気も持つかもしれないが。
「貧乏クジを引く」というのは、このことかもしれない。

日本では、そろそろ森首相は、終わりのようだ。次に誰がなるのかは わからない。 可能性がある人々の名前はあがっているが、やはり、イメージ先行 (せんこう)で選ばれるようだ。支持率(しじりつ)が下がると いつも候補(こうほ)になる人々だ。

若い政治家に関しては、まあ同じような顔で同じようなことを言う人々 であるという印象は拭えない。日本製の電気製品を見ているようだ。

アメリカでは、しばらく決まらないようだから、日本に、一人、貸して くれないだろうか。 今の日本には、ブッシュさんのほうがあっているかもしれないが まあ、どっちでもいいから。

 

2000 / 11

 

11 / 15

Webcamというものが世界にはたくさんある。

有名なコーヒーポットや、カフェだったり、レストランだったりする。 日本では自然の景色が多い。でも動きが少なくあまり面白くありませんね。

意外と多いのが床屋(とこや)。どこでも似たような景色でありながら 少しの違いを楽しむという風情がある。 動きも多いので楽しい。

日本でも、床屋談義(とこやだんぎ)という言葉がある。
政談(だんぎ) と書くこともある。
政治や社会のことなどを無責任に語り合うといった 意味のようだ。
スポーツ、芸能、近所の噂話し、など、なんでもよい。

銭湯(せんとう)がなくなった今、「角のタバコ屋のおばあさんは 昔、美人だった」などという話しは、ここでしか聞けなくなった。

 

2000 / 11

 

11 / 16

アメリカの大統領選挙は、裁判になりそうな展開(てんかい) だけれども、こういう状況は、面白いことをいうための格好の材料でもある。

いろんな人が、いろんなことを言っていた。

「交代制にして週の前半はゴアで、週末はひまだからブッシュにすれば?」
「いっそのこと、両方を副大統領にして、ヒラリーを大統領にすれば?」
「負けたほうを残念賞として日本の首相にすれば?」と、これは日本の女性。
「アメリカ人らしく、最後は、コイントスでいいんじゃない?」
「2人とも大統領にして、重要な政策はテレビ討論で決めたら?」
「2人に、フロリダの票を数えさせたら?」
「もう、面倒だから、クリントイーストウッドでいいわよ」

一般的なアメリカ人の意見は、裁判になって、弁護士の姿を見るのはご免だ。
というのが正直なところではないだろうか。

江戸時代の裁判の話で、こういうのがある。

子供の母親が二人名乗り出た。
両方とも、私が母親だと言って譲らない。
名裁判官は、二人の間に子供を置き、勝ったほうが本物だと告げて、 両手をそれぞれの母親に引っ張らせた。
子供は痛がって泣いた。

名裁判官は思わず手を離した女性に、「おまえが本物だな」 と言った。

後になって、「あの選挙の混乱がアメリカ黄金時代の終わりの 始まりだったなあ」と言われないように、すみやかに終わったほうが いいと思いますよ。

 

2000 / 11

 

11 / 17

日本には自称(じしょう)文学者が多く、今でも多くの小説やエッセイが 出版されている。 これは、必ずしも日本の文化程度を示すものではなくて 特殊な事情がある。

現在、日本で出版ビジネスは出版社が多くの雑誌を作り、広告収入 を得て、なんとか生き長らえているというのが実情(じつじょう)だ。 広告費を除く実収入のほとんどは、漫画によるものだ。

作家も、雑誌のコラムや、広告とのタイアップの文章などを書いて 収入を得る。

印刷メディアの危機と言うと、デジタルが印刷媒体を凌駕(りょうが) するという文脈(ぶんみゃく)で話されることが多いが、実は この広告収入に依存した出版業界そのものの体質が問われている。

いろいろな国の人に聞いてみたが、日本ほど極端な例はないようだ。
今は、オンライン広告の比重は低いが、おそらく10年くらいのうちに 逆転するだろう。

雑誌がなくなることはないが、広告価値は半減し、多くの雑誌が 淘汰(とうた)されることになった時、文学のビックバンが始まる。

 

2000 / 11

 

11 / 18

 

「『はじめました物』って知ってる?」
「何、それ?」
「冷やし中華(ちゅうか)とか、かき氷とか、」
「ああ、季節物ね。あのはり紙がね、いいかんじね」
「そうそう、それでさ、冬になると、あまり、はり紙はないんだけど」
「あ! 牡蠣(かき)でしょ! 私も好きなのよ」
「おお、そう! 好きなんだよ。おれも」
「最近は一年中あるけど、やっぱり旬がいいよね」
「そう、定食屋なんかで、店内に『はじめました』ってあるとさ、
ここは冷凍
  (れいとう)じゃないな、と思うよね」
「牡蠣フライ定食ね。つい、頼んじゃうのよね」
「あと、肉まんもあるけどね。冬も意外と『はじめました物』って  あるんだよ」
「ああ、ふぐとかね。でも高いからねえ」
「そう、あれはね」
「『はじめました物』って、敬太(けいた)が考えたの?」
「いや、雑誌のコラムで読んだの。東海林(しょうじ)さだお。うまいよね」
「ああ、あの人、そういうこと言いそうね」

 

2000 / 11

 

11/22

日本語を勉強して日本に来る。

日常会話にも馴れた。
電話にも自信を持って出ることができるようになった。
ニュース番組も大丈夫。

しかし、日本のテレビはほとんど見ることができない。

なぜか?

日本の娯楽番組は関西のテレビタレントが多くでているため、関西弁が わからないと、ほとんど楽しむことができないからだ。

関西弁がわからないと損(そん)をすることはテレビだけではない。
芸能、演劇は関西のほうが盛んだし、小説でも関西弁で書かれた名作は 多い。

 

2000 / 11

 

11/24

男と女の会話。ちょっと理屈(りくつ)っぽい会話。

「静江(しずえ)って、個性的(こせいてき)でいいよね」
「え、そう?」
「なんか『自分の世界を持っている』ってかんじ」
「どうだろうね」
「なんか不満(ふまん)なの?」
「どうかなあ。あのファッションセンスは」
「変わってていいじゃない」
「多分、彼女は、洋服を買う時に、自分の好きな色とか形で選ぶんじゃない」
「え、それでいいじゃない」
「いや、30を過ぎたら、自分の好きな洋服じゃなくて、自分に似合う洋服を
  着るべきだよ」
「え、そうかなあ」
「さっき、『自分の世界を持っている』って言ったでしょ」
「うん。いいことでしょ」
「いや、ちっともいいことじゃない。個性的とはちょっと違うよ」
「どういうこと」
「『自分の世界』なんてないんだよ。『世界』は他人とシェアしていくしか
  ないんだよ」
「なんか、つまんないわ。そんなの」
「でも、結局、他人が殺した動物の肉を食べて、他人が作った洋服を着て
  他人が考えた言葉を使ってるんだよ」
「じゃあどういう人が個性的って言うのよ」
「普通にしていれば、みんな個性的なんだよ」
「『普通』ってどういうことよ?」
「さあ、わからない。でも、個性っていうのは、もう少し静かなものだと思うよ」

 

2000 / 11

 

11/28

毎年、新しい言葉が生まれる。
今年は「ひきこもり」だろうか。

「ひきこもり」とは、主に10代の男の子に多い現象で、学校にも 通わず、家の自分の部屋から出ることができない子供のことを言う。

現在、日本には、この種の子供達が10万人単位でいるそうだ。 一説(いっせつ)には、100万人以上とも言われている。 普通のサラリーマンの一見(いっけん)、問題のない家庭の子供達である ことが多いそうだ。

長い期間、家から出られず30代になった人も多い とのことで、今年「ひきこもり」という言葉が一般的になったことで 顕在化(けんざいか)してきたという側面(そくめん)があるようだ。

以前は、学校へ通わなくなる、登校拒否(とうこうきょひ)が騒がれた こともあった。少なくとも彼等は、同じような子供達と遊んだり、歓楽街 (かんらくがい)で遊んだりたりしていた。

時代はもっと進んでいたのである。

 

2000 / 11

 

11/29

「ひきこもり」の問題が扱われているテレビ番組をいくつか見た。

始まる年齢は10代が主で、現在では、年齢のうえでは大人になっている 人も多いとのことだった。

ある男性は10代のころからひきこもりを始め、20代後半になっていた。 ほとんど、家から外に出ることはなかった。 2階建ての家の2階に自室があり、食事とトイレ、お風呂の時以外は その部屋からも出ることはない。家族とは必要最低限の会話しかない。 ひきこもりの子供のほとんどはパソコンを持ち、インターネットに接続 して昼夜逆転(ちゅうや ぎゃくてん)の生活をしている。

何年も自室から出ない生活は、やはりインターネットなしには 考えられない。

結局、その子供の両親は、ひきこもり専門の施設に頼むことにした。

3回目の訪問で、彼の部屋を開けることになった。 彼は、髪の毛は伸び放題(ほうだい)、毛布を被ったままだった。 施設の人に引きずられるようにして車に乗せられた。 玄関(げんかん)のところで怒鳴ったほかは、一言も言葉を発しないまま だった。

母親はずっと、泣いているだけだった。
父親は、息子が車に乗ったのを確認して突然、声を出さずに泣き始めた。

施設の人によると、家から出た時点で、半分は回復したと考えても いいとのことだった。

 

2000 / 11

 

11/30

ひきこもりの子供たちを見ていて、連想したことは、文楽(ぶんらく) だった。

文楽では、人形をあやつる人は、黒い洋服を着て舞台に立つ。

観客は、最初から、その黒子(くろこ)と呼ばれる人々が「いないもの」 だとして観る。しばらく観るうちに黒子の姿は消え、物語に集中できる ようになるそうだ。

言うまでもなく黒子は、「現実」だ。

少年達は、学校や教師、友人、仕事などを、次々に黒子として舞台から 消していきながら、生活のリアリティを失っていくのではないだろうか。

ある現象が、「日本的」だと決めつけるのは軽率である。 しかし、他の国で同じようなことが、このような大きな規模(きぼ)で 起っているとは聞いていない。

作家である村上龍は、ひきこもりの少年を主人公に小説を書いた。
タイトルは、共生虫。

ここで読めます。「向現」

 

2000 / 11

 

 

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