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移民として暮らすパリ 04 韓国から日本、日本からフランスへ

自然に囲まれた済州島での生活は時間の流れがゆったりでリラックスできたし、家事と赤ちゃんの世話を手伝ってくれるアジュモニ(아주머니)のおかげで、慣れない子育てと仕事の両立のストレスもあまり感じないで済んだ。前回のコラムには娘の病気をめぐるドタバタを書いたが、そのような大きなできごとを除いては、韓国での2年の日常生活は私にとってむしろ快適だった。 任期が終わりに近づいたころ、済州大学校の方からは3年目の在留を打診された。私の気持ちは揺れたが、結局日本に帰ることを選んだ。1歳の誕生日が近づいた娘が、何やら言葉に近い音(宇宙語?)を発し出しており、これが何語になるのだろうかと、不安を感じたからだ。私は娘には日本語で語りかけており、娘の父親はフランス語でしゃべっており、それだけでも十分複雑なのに、長い時間を一緒に過ごしてくれて娘がすっかりなついているアジュモニは、韓国語、それも済州の方言でずっと娘に接している。もう一年ここにいて、済州の方言が娘の第一言語になり始めてから日本に帰るよりも、まだきちんとした言葉が出ないうちに日本に帰って、娘を日本語環境に置いた方がいいのではないかと考えたのだ。 というわけで、1985年の3月に3人で日本に戻り、