自然に囲まれた済州島での生活は時間の流れがゆったりでリラックスできたし、家事と赤ちゃんの世話を手伝ってくれるアジュモニ(아주머니)のおかげで、慣れない子育てと仕事の両立のストレスもあまり感じないで済んだ。前回のコラムには娘の病気をめぐるドタバタを書いたが、そのような大きなできごとを除いては、韓国での2年の日常生活は私にとってむしろ快適だった。
任期が終わりに近づいたころ、済州大学校の方からは3年目の在留を打診された。私の気持ちは揺れたが、結局日本に帰ることを選んだ。1歳の誕生日が近づいた娘が、何やら言葉に近い音(宇宙語?)を発し出しており、これが何語になるのだろうかと、不安を感じたからだ。私は娘には日本語で語りかけており、娘の父親はフランス語でしゃべっており、それだけでも十分複雑なのに、長い時間を一緒に過ごしてくれて娘がすっかりなついているアジュモニは、韓国語、それも済州の方言でずっと娘に接している。もう一年ここにいて、済州の方言が娘の第一言語になり始めてから日本に帰るよりも、まだきちんとした言葉が出ないうちに日本に帰って、娘を日本語環境に置いた方がいいのではないかと考えたのだ。
というわけで、1985年の3月に3人で日本に戻り、
京都の長岡京市に落ち着いた。なぜ京都の長岡京市を選んだのかと言うと、その近くの大山崎町に叔父(母の兄)所有の家があり、馴染みの土地だったからだ。私は学生時代の数年間、その家で祖母と曾祖母と女3人で暮らしていた。後に結婚してから、叔父に家賃を払う形で配偶者とその家に住んでいたこともあり、そこから韓国へ旅立ったのだ。しかし、その家は駅から遠く、赤ちゃんとの暮らしには不便だったので、今回は阪急電車の駅近くで住むところを探した。
賃貸のマンションは3LDKで、日本人の感覚では3人で住むには十分な広さであったが、コンパクトな間取りで天井も低く、空間的な余裕がほとんどない。韓国で暮らしていた教員用アパートは、お湯の供給が十分ではないなどの欠点はあったが、部屋と部屋を分ける廊下が真ん中にあって間取りに余裕があり、リビングもキッチンももっと広かった。
帰国してまだ1か月も経たないころのことであるが、韓国で家族ぐるみで親しくしていた大学の同僚(男性)が、国際学会で京都に行くから会いたいと連絡をしてきた。娘の父親はすでに会社勤めを始めていたが、まだ娘を預かってくれる保育園も見つかっていない状況で、私は仕事もできず、家でずっと娘の世話をしていた。最寄りの駅に元同僚の韓国人を迎えに行く時間が、ちょうど娘のお昼寝の時間に重なっていたため、寝ている娘を置いて急いで行ったのだが、元同僚を連れて帰って来ると、起きだした娘が母親がいないので大泣きをしていた。
元同僚は、私のうちで終始落ち着かない様子で、夫が帰って来るまで待って一緒に夕食を食べて行くように勧めたのも断り、そそくさと帰って行った。マンションの狭さと、アジュモニのような子供の面倒を見る人がおらず私自身が子供の世話を全部している当時の私の日常生活が、彼の想像していたものとは随分違っており、驚きあきれて早々と立ち去ったのだろうと思うと少し悲しかった。
しかし、数か月すると、娘を預かってくれる私立の保育園が見つかり、私も京都や大阪でまた日本語教師の仕事を続けることができるようになった。この保育園は、土曜日も預かってくれたし、一時間にいくらという延長料金さえ払えば、夕方の6時以降も預かってもらえて、働く母親にはありがたい環境だった。
唯一の難点は保育料が高いことだったので、翌年には料金の安い公立の保育園に申し込み、少しの間通った。しかし、延長保育がなく、5時に仕事が終わる私が6時ギリギリに迎えに行くと、園児は娘だけになっており、入り口近くで保母さんが娘を抱いて今か今かと私を待っているという状況が心理的にきつかった。そのころ私は、大阪にある日本語学校で主任講師をしており、勤務時間は5時までだったのだ。加えて、フランス人の配偶者が、自分が送り迎えをすると、みなが動物園の珍しい動物を見るように自分に接するのでたまらないと言い出した。それで、延長保育が簡単にでき、外国人の父親に対してもっとさりげなく接してくれる私立の保育園にもどることになった。結局娘は2年間その保育園にお世話になり、3歳の誕生日直前に渡仏するころには、流ちょうな関西弁をしゃべる少女に育っていた。
日本語教師の仕事を再開するとすぐ、仕事仲間から国際結婚を考える会というものがあることを聞き、会員になった。そして、国際結婚をしている日本人女性の仲間とともに、国籍法改正のための運動に微力ながら関与することになった。前回のコラムで少し触れたが、当時は、日本の法律がまだ父系優先血統主義だったので、フランス人の父親を持つ娘は出生によって日本国籍は取れず、フランス国籍しか持っていなかったのだ。結局、私たちが日本に戻った年(1985年)に国籍法が改正され、父母両系血統主義となる。日本人母と外国人父を持つ子供も日本国籍を取得できるようになったのである。京都の荒神口にある法務局に届け出て、娘は1歳の時に帰化により日本国籍を取得、二重国籍保持者(注1)となった。
韓国から日本へもどり、京都郊外での暮らしにすっかり馴染んだころ、今度はフランスへ行くことになった。娘の父親の大阪での仕事が上手くいかなくなったことが原因である。初めは大きな翻訳会社に勤めており、自動車関係の英仏間の翻訳をやっていたのだが、そのころもっと小さな翻訳の会社(多分下請けの会社だったのではないかと思う)を経営していた仏人が帰仏することになって、その会社を引き継ぐことになった。自分で技術関係の翻訳をすることには慣れていても、人を使ってそれをやらせて管理するというようなマネージメントには向いていなかったのではないかと思う。仕事を引き受けすぎて、自分で翻訳を全部やらざるを得ないような状況にしてしまい、深夜作業は当たり前、土、日もずっと仕事を続けるという無理な日々が半年ほど続いた挙句、挫折してしまったのだ。
そのころすでに33歳で、フランスを離れてから7年目になっていた彼は、急に自分の人生やキャリアに不安を感じだし、フランスに帰りたいと言うようになった。そして、まず先に仕事を見つけてくるからと言って一人でパリに向かった。元々はフランスの東部出身の人であったが、日本から本国に急に戻る場合、やはり大都会であるパリが仕事が見つけやすいと思ったのだろう。パリに住む知人を頼って旅立ったのだ。1986年のクリスマス前のことだった。
2歳の娘と残された私は、普段の生活を続けながら、まだ自分がフランスに行くということに半信半疑だった。が、しばらくすると、雇ってくれる会社が見つかって、3か月の試用期間に入った、本採用になったらすぐに迎えに行く、という連絡があり、とうとう日本を離れる覚悟を決めた。
数えると引っ越しは4月ごろになりそうなので、私自身の仕事も3月末に退職を決めた。長岡京市のマンションも同時期に明け渡し、大きな荷物は処分して、身の回り品だけ持って大山崎町の叔父の持ち家に移った。大学時代に一緒に暮らした曾祖母はすでに亡くなっており、祖母は高槻市の叔父のうちに移り住んでいた。その時は誰も借り手がおらず、祖母がたまに一人になりたいときに掃除がてら息抜きに行っていた。
日本を離れた日のことは、まるで昨日のことのようにはっきりと覚えている。配偶者が戻って来てからの一週間はあわただしく過ぎた。娘ももう保育園を退園していたので、祖母が数日前から手伝いに来てくれていた。その日も朝から私と配偶者はバタバタと最後の用事に追われて駆け回っており、その間祖母が娘を見てくれていた。ふと、娘がなんか静か過ぎることに気が付いた。普段なら走り回って危ないことばかりする娘が、こたつに足を突っ込んだ形で横になりウトウトしている。午前中なので、お昼寝の時間には早すぎる。額に手を当ててみると、熱い。
配偶者が一人でフランスに帰ってからの3か月半、寒い季節であるのに娘は風邪も引かず、熱も出さなかった。2歳までに数え切れないぐらい中耳炎を繰り返し、近所の耳鼻咽喉科の先生とはすっかり顔なじみになっていたような娘だが、父親不在の期間は保育園無欠席で、私はとても助かっていたのに、出発当日になっての発熱だった。
慌てて体温計を探したが、引っ越しの最中にどこかに行ってしまったのか、見つからない。急いで薬局に走り、テルモの体温計を買って熱を測ったら38,5度あった。
実は、出発の日に娘のために買ったこの体温計は、38年後の今も私の自宅にあり、今でもちゃんと動いている。ただ、腋に挟んでピーっとなるまで数分間じっとしてなければ測れないので、7歳と5歳のじっとしていられない孫たちの体温は測りづらい。多分、孫たちがおばあちゃんちの古い体温計の話を家でしたのだろう。額の前に置いてスイッチを入れると、額から放出される赤外線で1秒で体温が測れる便利な体温計を、今年の私の誕生日に娘が買ってくれた。
出立の時間になり、「じゃ、そろそろ行くわ」「うん。気をつけて」と、近所のスーパーにでも行くような軽い挨拶を祖母と交わして、フランスへ来た。そして、それが元気な祖母との最後の会話になった。それから一年も経たないある日、脳の血管が詰まり、祖母は半身不随になり、それから8年入院して、結局病院で亡くなったからだ。
熱でフラフラの娘にとってフランスまでの旅は大変だったと思う。そのころのヨーロッパ線の経由地だったアンカレッジで撮った写真が残っているが、娘は寝ぼけたような顔をしている。何回か嘔吐し、それ以外は飛行機の中でずっと寝ていて、何も食べられなかった。初めての国フランスに着くと、娘は2週間ほど寝込んだ。次の日から会社勤めが始まった配偶者には頼れず、辞書を片手に異国の地で私が初めて一人でしたことは、小児科医の所に娘を連れて行くことだった。

娘とアンカレッジ空港で
最後に、20年後に娘の国籍がどうなったかという話と、私の現在の国籍の話を付け加えておきたい。
娘がちょうど22歳の時、修士課程の2年に在籍中、日本の大学への半年の交換留学が決まった。二重国籍の娘はそのころ、日本のパスポートとフランスのパスポートの両方を所持していた。日本のパスポートで日本に入国して半年滞在するということも可能であったのだが、フランスの大学院生として日本に行く交換留学であるので、日本滞在のビザの申請をした方がいいのではと思いパリの領事館に出向いた。その時、窓口で、国籍選択義務のことを教えられた。窓口の人の説明によると、国籍を離脱しても、元日本人であることを伝えれば、今後日本に長期滞在する場合でも、ビザは普通のフランス人よりも簡単に取れる、ということであった。フランス人としてフランスで生きて行くことを普通に感じるようになっていた娘は、「元日本人」で構わないと思ったのだろう、迷うこともせず国籍離脱届を提出した。実は、私の周りには、フランス国籍を取得しても、日本国籍の離脱届を出さず、結果として二重国籍を保持し続けている日本人が何人もいる。だから、娘のこの潔い選択が良かったのかどうかと問われると、答えに迷う。
フランス滞在歴38年の私自身の国籍はどうかというと、2025年現在までずっと日本国籍のままで暮らしており、フランス国籍は持っていない。私がフランス国籍取得に動かなかったのは、日本国籍に拘りがあったからというよりも、私の置かれた環境が私が日本国籍のままでいることを許したからである。私は大学勤めであるので、国籍条項というしばりがない。つまり、フランスでは、外国籍のまま、准教授、教授などの大学の専任教師(フランスの大学はほとんどが国立であるので国家公務員である)になれるのである。これが中学校や高校などで日本語を教える中等教育勤めであったら、国籍条項があり専任になれないので、すでにフランス国籍取得に動いていたと思う。
注1
日本の国籍法には国籍選択制度があるため、重国籍を持つ者には22歳までの国籍選択が義務付けられている。2022年度からは、成年年齢が20歳から 18歳に引き下げられたことに伴い、 20歳に達するまでに選択しなければならない、と年齢が引き下げられた。一方、ヨーロッパでは、1997年に新たなヨーロッパ国籍条約が採択され、権利として重国籍が容認されている。

- 書いた人:ヒロリン
- 著作:『フランス語話者に教える』
- 自己紹介:三重県生まれ。フランスに来るまでは京都と大阪の中間ぐらいの所で暮らしていた。外国暮らしは韓国の済州島も経験。フランス生活は37年になり、ちょっと変な日本人になりつつある。職業は大学勤務の日本語教師。日仏ハーフの娘が一人おり、日仏中国の血が混じった3人の女の子のおばあちゃん。