【memo】考えさせられて困りました

「考えさせられました」は、感想などで使えて、しかも、何を考えたのかあまり書かなくてもいいという便利な語です。何も書かないと「ホントに考えたのか?」などとツッコまれそうなので「人の生き方について考えさせられました」などとちょっと補足したりします。

「考えさせられる作品」みたいな派生的な使い方もあります。「人の心に棲む差別意識について考えさせられる本」とか。学校などで教師が感想を尋ねる際も「考えさせられました」と言っておけばいい、みたいなところがあり、教師も「考えさせられたならいいか」と考えているフシがあります。

モヤモヤ

どうも考えることが、思ったり、感じたりすることより高級でいいことだというのが前提になってるような気がします。
「この映画をみて、人が食べるという行為はセクシーだなと感じさせられました」みたいな感想は、実際は結構あっても、あんまり口に出したり、書いたりしない。感想文には書かないことがお約束になっています。考えるというのは、何か分析したり、ロジックを構築したり、ということなので、口にしても恥ずかしくないということでしょうか。

「せっかく気晴らしに映画をみたのに、考えさせられて困りました」と書く人は見たことがありません。「深刻な作品で面食らった」とか「辛気くさかった」とかは許容されている?でも、そういうことは、結構あるはずで、スカッとする映画かと思ったら、結構深いテーマを掘り下げる系の作品だった、ということもあるし、基本エンタメ寄りの作品なのに、なんとなくとって付けたような考えさせられるテーマのようなものがあって、そこが浮いていて余計だった、ということもあります。しかし、ちょっとでも深刻なテーマのようなものがあると、感想の際は、そこを語るべきで、楽しかったところはテーマを伝えるための手段に過ぎないもので語る価値がないと考える人も結構います。学校で使われる動画や運転免許の講習動画のように、考えさせるのが目的みたいな本や映像が、伝える技術が低いためにおもしろくない、ということも結構ありますし、劇場映画でもありますが、これは「おもしろくなかった」とは言いにくい。

逆に「掛け値なしに楽しめる」みたいな前宣伝は、深刻なテーマなどないよ、という暗黙のメッセージにもなっていることがあります。ただ、往々にして、そういう作品で実は、作者が巧みに仕込んだ大事なテーマを、無意識のうちに受け取っているということもある。作者が伝えたいことは、わかりやすい、明確なものとは限らないという気がします。

「考えさせられる映画かと思って見たけど、結局楽しまされてガッカリした」

みたいな人もいないとは限らないか。まじめな作品かと思ったらおふざけでガッカリみたいタイプの人はいますし。

「あの漫画読んだけど、ありきたりなことを考えさせられて途中で読むのやめちゃった」

「あのクソアニメ、考えさせやがって!」

とか

「物語の展開で一時的な熱狂に引きずり込み、作り手の都合のいい主張をあたかも正義であるかのように考えさせる酷い作品」

みたいな使い方があってもよさそうな気がします。

考えさせちゃダメだ!

しかし、考えさせるのはよくないという例をみつけました。例えばコンビニのコーヒーマシンがわかりにくいとか、トイレの表示が~みたいなヤツです。UIが練られてない、UX的な発想が~などと定期的に話題になります。これなどは、炎上の度に、担当者が上司に呼びつけられ「こういうものは考えさせちゃダメなんだよ!」などと叱られている姿が目に浮かびます。

こういうことがちゃんとできる人は、多分、小中高とさんざん、考えさせられてきたはずですが、どこかで、例えば専門学校や大学などでプロダクトデザインを勉強することになった時などに、急に、考えさせちゃダメみたいなことを言われ、考えさせないために考える、みたいなことをやらされた経験があるのかもしれません。

次世代の「考えさせられました」

ここ最近は、考えさせられましたの代わりに「気づきがあった」「学びがあった」が台頭してきてます。考えさせられましたは過去形ですが、今も考え中と逃げられる。でも「あった」と書く以上はそこそこ頭の中で整理されているはずだ、みたいなこともありそうです。つまり、なんとなく「気づき」は、ちゃんと何に気づいたか書かないといけないプレッシャーがあり、学びも同様です。「気づき中」ですとは言いにくい。考えさせられましたに較べると、気づきも学びも「箇条書きで述べよ」と言われてる感があります。SNSやブログでも、気づきとか学びというワードを使う人は嬉々として何を気づいたか、学んだかを書く傾向があるように思います。

ただ、往々にして気づきや学びとして書かれることは、作品=テキストの要約の域を出ないという印象もあります。連想したり発展したりまでは期待もされていない?

感想を書くための

時間をかけて何かを鑑賞したら、考えさせられたり、気づいたり、学んだりしないと気が済まないという人はいて、SNSは、言葉の世界だからか、そういう人が溢れているように見えます。わざわざ何かの感想を書くからには、立派なことを書きたい。それを読んだ人に「そんな深い意味があったんですね」みたいな感想を言わせたい、イイネがほしい、みたいな欲も出てくる。せっかく時間をかけて辛気くさい作品を読んだんだから、なんか学ばないと損だ、みたいな空気を感じることもあります。SNSだけでなく、ブログに書くとなると、ついでに広告もクリックしてほしい、歴史小説好きとして、何かお金や仕事に繋がるかも…と欲望が拡大していくこともある。

目立つためには、他人とちょっと違う切り口も必要なので、東西冷戦のスパイアクション映画で「**はロシア系の移民だからあの演技には深みがあった」などと、人にもっと考えさせようみたいなウンチクを追加する人もいます。

SNSで読んだと投稿するために、仕方なく、本を読んだり、映画をみる人もいそうです。ホントは好きでもないし、何か考えさせられたわけでもないけど、そういう感想をくっつけて投稿する。いかに共感が得られるかのスキルを競う。

ネットでも、ますます考えさせる作品、気づきや学びがある作品のほうが偉いというムードは醸成され、しかも、自慢もできてコスパがいい、ということになっていきます。

ただ、こうなると、日本語のネットの世界 1ではお勉強的な作品が話題になる比率のほうが多いような気がしてきますが、実はそうでもないらしい。やはりクラスタによって全然違って、あるクラスタでは「腕の筋肉がセクシー」とか「そのシーンの上目ずかいの表情が可愛いかった」みたいな感想のほうが圧倒的に多いらしいです。本当はお勉強勢も、唇のアップにグッときてたりするけど、ネットに感想を書く時に自主規制されるということかもしれませんが。

考えると考えたのではないことの違い

考えると思うや感じるの境界はどこにあるのか、またどう違うのか、使い分けなど、いろいろと考えましたが、使い方のルールとして示すようなものは思いつきませんでした。ひとつ、根本的に「考える」は欲望と相性が悪いですね。食べながら考えたりは、できないことはないけど難しい。特にお腹が好いている時は。セックスの最中は思ったり感じたりはあっても、考えることはなかなかハードです。行為の最中によく問題が解ける、みたいな天才的な数学者などはいるかもしれませんが。

「考える」が偉くて、思ったり感じたりは一段劣るものだとされているのは、欲望に近いからだ、というのは、私の発見でも何でもなくて、普遍的なルールとしてすでに語られている可能性100%という気がします。私が知らないだけで。

  1. 私はネットは、日本語7割、英語3割くらいで覗いていますが、結構違うので分ける意味で「日本語のネットの世界」と書くことが多いです[]