コンテンツへスキップ

【memo】例えの境界線

LA山火事の焼け跡は「原爆後の広島のよう」 米キャスターが発言 | 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20250112/k00/00m/030/207000c

LAの火事はかなり広範囲でしたが、死者は数十人単位で、セレブの高級住宅街などもありましたので、悲惨だが深刻な災害という報道はされていないという印象です。

災害を災害で例えることは結構あります。災害の規模の表現として比較する対象が必要という理由がありそうですし、台風を台風で例えて説明することはよくあります。違う災害になると、ちょっと注意ということがあるかもしれません。

ただ、広島と長崎の被害は原子爆弾の被害としては他に比較する対象がないので、戦争の被害の例として、特に爆弾による被害の例として使われるのは仕方ないかもしれないという気がします。火事の例えは焼け跡の風景を言ったもののようですから、広範囲の焼け跡の比較としてはあってもいいのかもしれません。米国で広島を例えに使うほど多くの人にイメージされるという事実も考えようによっては悪くないことかもしれません。FOXという保守的で時にかなり乱暴な表現をするところなので、軽く言ったんじゃないか?という邪推も含まれているように思います。確かに広島はHiroshimaとなると、結構軽く使われる感はあります。ただ、個人的には広島や長崎のことが、いろんなことの例えとして世界で使われることは、それだけ世界での認知が高いということでもあり、悪くないことだと思います。

比喩ではなく比較という観点で考えると、災害を比較することに問題はあるのか?ということがありそうです。SNS上では、LAの火事は確かに大変だが、ガザのほうが深刻だ、という投稿が結構ありました。この種の投稿は形を変えてよく行われます。ウクライナのほうが、チェチェンのほうが、とそのことに関心が強い人が使います。比較として使われる災害は、一応、たしかに大変だが、というような前置きをするけれども、どっちがより悲惨なのか、という比較が下敷きになってることは事実です。

LA 火事 ガザ until:2025-01-15 since:2025-01-09 – 検索 / X

しかし、この種の比較は不謹慎というより無神経という印象を持ちます。言うまでもなく、わざわざ他の悲惨な例を持ち出さなくても問題提起はできますし、災害の最中にわざわざ比較する必要はないと思います。特に、まだ全貌がわからない段階では、いろいろと心配もしている人はいるでしょうし。身近な人の心配は災害の種類や規模は関係無いわけです。

こういう比較で投稿をする人も、例えば「能登半島地震は大変だけどガザのほうが」とは投稿しません。炎上しそうだという考えるからでしょう。つまり、LAの人達に日本語の投稿は届かないだろうということも密かに計算されているわけです。ガザのことを考えよ、という主張はガザのことは他人事ではないという主張でもありますが、LAの火事は他人事として扱われているだけでなく、比較においてLAの火事はガザの深刻さを強調するためのスパイスとして使われている。ガザという深刻な問題のことを主張しているのだから少々の物言いは許されるだという考えもありそうで、かなりモヤモヤします。

個人的には、焼け跡を広島に例えるより、こっちの、じわりと批判を避けたり、封じたりする用意周到さにより嫌な感じを受けます。ただ、こういいう物言いはすべきではない、少なくともパブリックな場でやるべきではないと、学習する機会はないかもしれない。学校でも習わないし、なんとなく気がつく人は気がつくが…というものという気もしますから、おそらく無くなることはなさそうです。

以上、なんとなく考えた事でした。

ついでに書きますが、例えるという行為は結構制約があるなということも連想しました。

よく食レポなどで、「同じもので例えるな」みたいなことが言われます。これもケースバイケースみたいです。牛肉を豚肉みたいだ、と言うとダメだと言われますが、ワニやカエルの肉はよく鶏肉に例えられます。

魚を肉で例えるのも、その逆も、許容されるかどうかは、いろいろみたいです。果物になると、これまた境界線が曖昧になります。違うもの、遠いもので例えるほうが上手い例えだということになりがちです。例える行為にも、タブーがあったり、ルールがあったり、良い悪いのジャッジがあるのは、だれもが意識しているようですが、ハッキリとしたルールは無い。日本語を教える際に、結構深掘りして考えたほうがいいテーマかもしれないと思いました。多分ですが、言語や社会によって微妙なルールの違いがあるはずです。火事の惨状を広島に例えるのは米国ではどうか、日本ではどうか、違いはあってもいいことなのかもしれません。

ロジカルな議論をする、文章を書く際には安易な例えは使わないという原則はありますが、例えるという行為は、表現において結構重要な部分を占めていそうですし、日常的に体験を人に伝える際に便利です。例えることを教える際に、にほんごではどういう制約があるか、ちょっと整理してみたほうがいいんじゃないか、という気がしました。(でも、今は時間がないので無理そうです。誰かやったものを探す時間も無いので、そのうちに…)