はじめに
2017年から18年にかけて、日本語教育推進法に関するヒアリングなどここ数年のしめくくりの議論がなされてきましたが、18年に入り急に官邸主導で労働力補填ありきの方向に大きく舵が切られた、という印象です。
日本語教育機関と専門学校・大学などの学校関係者は文科省主導の日本語教育推進法を軸にした「穏やかな方向転換」が崩れそうなことに危機感をいだいているようです。人出確保優先で単純労働目的にビザが与えられ、留学ビザは本気の留学指向の人だけになってしまうと、日本語学校は半減、専門学校や留学生だのみの大学も大きな(おそらくほぼ不可能な)方向転換を迫られることになるはずです。
2018年のいろいろな迷走は、結局、省庁とその周辺で仕事を確保しなければならない人達が、拡大が見込まれる国内の日本語教育というパイを奪い合っているだけなのではないかと感じられました。人手不足で働き手が欲しい業界や地方自治体、国内の日本語教育行政に参入したい外務省=国際交流基金、国内の日本語教育を法務省から奪うのだと語る文科省中心の日本語議連。それぞれの立場での駆け引きが行われる中、日本語学校関係者は、基本法のヒアリング(政治家に対する日本語教育関係団体のプレゼン)において、日本語学校に対する保護、規制緩和、ビザ期間の延長を、というほぼ業界の「陳情」に終始しました。残念ながら、日本語を教える人、学ぶ人、という現場の人々の意見は方針に反映されないままでした。
日本語教師は、この重要な時期に、自らの立場を代弁する機関や組織を持つに至らなかったことで、今後しばらくは仕事の環境が改善される可能性は薄くなったと思います。それはもう自業自得として受け入れざるを得ないのかもしれません。
さて、肝心の日本語を学ぶ人達の声はどこにあるのでしょうか?誰が代弁すべきだったのでしょうか?
→ 日本語教育推進法のヒアリングでのプレゼンファイル:ほとんんが文化庁や入管などのデータで、具体的な提言もなく日本語ネイティブもかなり含まれる「在留外国人数」を日本語の学習が必要な人の母数とするようなアバウトな数字が並ぶ日本語教育学会のプレゼンファイルと、その他の日本語学校関係団体のファイルへのリンクはここに記録しました。
日本語教育学会の「意見書」
2018年11月、新たな在留資格の審議が進み、日本語教育の必要性に関する報道もかつてないほどに増えました。政府関係者から漏れてくる「生活に必要な日本語」「最低限度の日本語」というあいまいな物言いには、3年から5年程度で帰る単純労働者に、数集めの上でも、コストの面でも足かせになる日本語のハードルを無理に設定する必要はないという意向が透けて見えました。まずは人の数の確保優先で余計な縛りをつけず政治がコントロールできる制度、枠組みを作らなければならないと考えているはずです。近隣諸国との時給の差も縮まり、思ったほど確保できなくなりそうだという危機感もあるようです。
2019年から韓国の最低時給は全国約835円。18年10月の時点でこれより高いのは、北海道、千葉、東京、神奈川、千葉、埼玉、静岡、愛知、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、広島だけです。九州、四国はすべて韓国以下。台湾の最低時給は約540円ですが、介護の仕事の最低時給は738円以上とのこと。これは日本だと上記の大都市がある県を除く地方の平均とあまり変わりません。もちろん年々時給が上がる中国でも介護や建設などで大量の外国人労働者が必要となってきています。
つまり国は日本語教育に関しては、質(教師の質保証や学習環境の整備)以前の「量(学習時間)」の話すらしたくないという姿勢でした。日本語教育関係者も、なぜかこの肝心の「日本語の学習にかけるべきコスト」に関しては抽象的な物言いに終始し、具体的な数字に関しては口を閉ざしました。
11月上旬、日本語教育学会は、この注目が集まる中、提言を出すと発表しました。一般の人々にアピールする絶好の機会に、何よりも日本語の学習が必要な人の立場にたって日本語教育の政策に「具体的な」提言をするものだと期待しました。データを示し、一般の人達に理解を求め、正攻法で政策に影響を与えることができる唯一の独立した組織だったからです。
その意味から最低でも
- 日本に滞在する人は「在留資格にかかわらず」すべて日本語を学習する「権利」があること
- その学習時間は最低でも***時間などと譲れないラインを数字で明確に示すこと
- 学習の質を担保するための教師の資格や学習環境の確保の基準を明確に示すこと
- 永住、帰化、長期滞在を見越して国による(在留者の)母語教育のサポートを義務化すること
- 日本語教育だけでなく、日本の言語教育も再考すべき時期であること
を日本語教育の専門家の立場から明確に提言し、学習者のために学習環境(学習時間の確保、教師の質の保証)の保証を迫らなければなりませんでした。政策策定の方向性に釘をさす必要がありました。CEFR的な評価基準を用いる(という記述がありました。後述)なら日本国内の言語教育への言及も必要であったはずです。日本語の学習は義務として課すものでも、施すものでもなく、日本で生活する人すべてが最初から持っている権利であり、その日本語を学ぶ権利を保障することが最優先事項だという視点が重要でした。
しかし、ほぼ政策の方向性が決まったタイミングで出された提言は、以下のようなものでした。
外国人受け入れの制度設計に関する意見書 2018年11月12日 日本語教育学会
http://www.nkg.or.jp/wp/wp-content/uploads/2018/11/20181112_ikensho_1-8.pdf
日本語教育学会は、同月末に「外国人受け入れの制度設計に関する要望書」も法務大臣、副大臣、政務次官宛てに出したもの。特に意見書と変わりはありません。
残念ながら提言と呼べる具体的なものはなく、肝心のブルーカラーの日本語教育に関しては言及を避けつつ、いろいろ心配してますよ、という程度の弱々しいものでした。おそらくは、今後の政策の議論の足かせになるようなことは言わないほうがいいというような「配慮」があったのではと思われます。この意見書は、おそらく政策には何の影響も与えないし、むしろ影響を及ぼさないように慎重に言葉を選んで書かれたものだと感じました。そして、これは日本語教育学会が何もしなかった、言わなかった、と後で批判されないためだけに作られたものではないかという印象でした。
日本語教育推進法はあったほうがいいでしょう。しかし、国民的な争点となり議論の末に成立するのではなく、関係者の間でしか話題になっていない抽象的な文言で書かれた法律が成立すればなんとかなると考えるのはあまりにナイーブです。為政者の解釈次第でどうにでもなる文言の法律をしっかり具体化させるためには、日本語教育学会が立場を鮮明にし、具体的な提言で社会に対する理解を求めるアピールが必要だったはずです。
2019年から数万人単位で来ることだけは決まった外国人の日本語教育に関して、日本語教育学会の役割は専門家として具体的なデータと目安を示し、国に中長期の具体的な対策を迫ることと共に、一般の人や外国語の学習に理解が薄い現場の人達に対してもきちんと何が必要なのかを訴え、理解を広め、深めてもらうことであるべきでした。93年に始まった技能実習生制度と2000年代の拡大を受けてその準備は当然してあるべきでしたが、日本語教育関係者はその準備を長年怠ってきた、ということではないかと思います。
日本語教育学会しかできなかったはずの「必要な日本語能力を獲得するめの必要なサポートはどの程度なのか」ということに関しては、まったく見解もデータも示されませんでした。報道が過熱した中で専門家から例えば「日本で安全に生活するためには、すべての在留者に、少なくとも他の国々の移民向け言語学習プログラムと同じ程度である500時間の学習時間は確保されなければならない」とデータを示し、提言があれば、それが報道されれば、一般の人達の認識も「やっぱりそのくらいは必要なのか」と変わったかもしれません。しかし、このぼんやりした意見書は、実際は私が知る限りでは産経がネット版で地味に書いただけで、その他はまったく報道されずSNSやブログでも関係者が書いただけでした。かつてないほどに日本語教育への関心が高まった中、日本語教育の専門家の考えを伝える千載一遇のチャンスを逃したのではと思います。
現実問題として、省庁の壁を越えて日本語教育のグランドデザインを示すことができ、政策に影響を与えることができるのは日本語教育学会などの専門家集団だけです。ひっそりと議事録が公開される省庁内の有識者会議の中だけではなく、社会に向けて開かれた場所で発言することがネット時代は可能であり、求められていることなのです。誰もが言いそうな、共感だけは呼びそうなきれい事をちりばめて大見得を切るだけで、その後の省庁での会議では結局押し切られてしまいました、がんばったんですけどね、やれやれ困ったもんですね、では何の意味もありません。
例えば、一般的な日本語の初級総合教科書の想定学習時間は200~300時間程度で、それが定着するまでに+200時間、合計でやはり500時間程度の確保は必要なはずです。ちなみに日本の中学の英語の授業時間は、2012年までは約260時間、2012年以降は、約360時間。高校はだいたい600時間です。日本で高校を卒業した人は「必要最低限の英語」を話せるようになったでしょうか?コンビニや介護、単純労働など仕事の種類どうこうの前に英語圏で生活できますか?という問いかけが出来たはずです。
→ 今回の18年11月の日本語教育学会の提言は、17年に学会が出した短い声明(ここでは少なくとも「N4程度では介護の現場には不十分だ」という具体的に踏み込んだ表現がありました)よりさらに後退したあいまいなものでした。おそらく具体的にN4などと政策論議を縛るようなことを言うなと政府関係者に怒られたんじゃないでしょうか。
「意見書」への疑問
今回の意見書から引用しながら考えてみます。(引用部分は太字&下線)
これまでどうだったか
日本語教育の具体的な取り組みについては,すでに専門的見地から議論されているものを踏まえて,着実に進めていく必要がある
「すでに専門的見地から議論されているもの」には註があり、これまでの取り組みが紹介されていますが、基本、個別の論文があるだけです。学会として具体的な提案をしたことは記憶にありませんし、サイトにも何もありません。そもそも日本語教育学会は、国内の日本語教育の政策に関して議論して何かを決めたことはないように思います。政府の日本語教育関連の会議でも常に存在感はありませんでした。
→「日本語教育関連の「有識者会議」」
https://twitter.com/i/moments/784889841666318336
(閲覧にはツイッターアカウントが必要です)
日本語能力試験にかわるものは?
また特に,学習者の日本語能力に関する評価について,一般には日本語能力試験のレベルによって語られることが多いが,実際に何ができるのかといった具体的な能力記述の評価体系構築についても検討が必要である。
実は、日本語能力試験は昔からサイトでも建前上は「何ができるのかという具体的な能力記述」と結びつけられて説明されています。これに無理があった、限界がある、ということを認めるものであるのかなと感じます。
昨今、報道でみかける政府関係者の文書や新聞記者の日本語能力試験の説明は、基本的に、能試のサイトの説明が元になっており、そのまま引用したものがほとんどです。それを受けて日本語関係者から「政府関係者やメディア、世間は能試に関して誤解している」という批判がありますが、そうではなく、あれは、もう何年も能試のサイトにあった能試の主催者の日本語教育関係者による説明で、これまで日本語教育関係者も能試の願書などで目にしていてスルーしてきたものなのです。こうやって、日本語教育関係者が、これまで能試に丸投げで、多様な評価のあり方を考えてこなかった、作ってこなかったから、こうやってバタバタとしているわけです。
→ 現在の日本語能力試験の説明
https://www.jlpt.jp/about/levelsummary.html
旧日本語能力試験の認定の目安
最大のテーマであるブルーカラーの日本語学習者には言及していない
現在,巷間を賑わせているのは,新しい在留資格「特定技能」の創設に関することが中心である。しかし,この新しい在留資格創設は,日本政府の外国人受け入れ政策の一部である。政策を全体として考えると,家族の帯同が認められている,いわゆる「高度人材」の受け入れについて,今まで以上に積極的に取り組もうとしていることがわかる。
この文章から始まる提言3は、大多数を占める肝心の特定技能(事実上、ほぼ家族の帯同は許されていない)で来る外国人の日本語教育に関しては触れないまま、家族の帯同が許されている高度人材資格から児童の日本語教育などに論点が移ります。2019年から数万人単位で来るという日本で働く特定技能の外国人の日本語教育のことを正面から語ることを避けたまま終わります。つまり肝心の特定技能で来る人達への日本語教育のことはこの提言には書かれていない(これは法務省への要望書でも同じです)のです。
今、問題になり、対策が必要だとなっているのは、すでに圧倒的マジョリティのブルーカラーの日本語の学習が必要な人達が今後爆発的に増えるという話なのです。なぜそこはスルーなんでしょうか?おそらく、これまでの研究の蓄積が少なく言うべきことがないからではと思います。率直に言うと、日本語教育関係者は、ほぼ誰も何も考えてきていないのです。ごく一部がAJALTに委託されただけで、留学生や残留孤児、児童の日本語教育のように国からやれという話が来なかったからだと推察します。
日本語教育の世界では、ブルーカラーの日本語教育に関して話題になることはほとんどありません。技能実習制度が正式に制度化されたのは93年。25年です。すでに2000年以前から国内の日本語の学習が必要な人の中でも多数を占める割合であったにもかかわらず「技能実習 日本語」で全文検索して出てくる論文の数は2018年12月の時点で「93」で、そのうち日本語教育に関するものはわずかに「10」前後。日本語教育学会のサイト内検索で「技能実習」で出てくるページのうち、内容があるものはこの2017年のざっくりしたレポートの他はほとんどありませんでした。日本語教育関係者によって書かれた技能実習生に対する言語政策に関する論文は調べた限りではありません。
ここは、我々はブルーカラー労働者の日本語教育に関して、真摯に考えてこなかった。準備不足であった。からはじめるべきところではないでしょうか?
今現場で働いている有資格者の日本語教師は「存在しない」
日本語教育に携わる人の資格については,文化審議会国語分科会日本語教育小委員会で議論が始められている。
これはいつものことですが、日本語教育学会も国の会議でも、日本語教師の質的な担保としての資格を語る際に、これまで30年にわたって日本語教育を支えてきた日本語教師養成講座の420コマ時間の修了者と日本語教育能力検定試験の合格者に関しては言及されることはありません。
なぜ、文科省で大学の専門家の会議を経て始まり、度々シラバスの改訂の会議まで国でやり、法務省によってこの有資格者の教師でないと日本語学校と認定しない、という規制まであるのに長年にわたって民間資格であったのか?文科省系の会議では常に「無かったかのように」扱われるのか?
それは、これまでのこの資格制度に言及すると、シラバスを決めただけで、質的管理を放棄してきた文科省=文化庁と日本語学校業界、シラバスの策定に関わり、かつ養成講座の講師として仕事をしてきた大学の日本語教育の研究者達の管理責任が問われるからだ、ということではないかと思います。
また、昨今の会議でのスルーっぷりは、おそらく新たな資格制度を作りたいという人達による(これまでの資格制度が機能してなかったかのような、NHKが資格は無いと報道してしまうような)意図的なミスリードもあるのかもしれません。
あるいは、提言にある「文化審議会国語分科会日本語教育小委員会の議論」で、例えば、日本語教師養成講座をこれから理論部分は民間から取り上げて大学で独占したいという意向が大学関係者にはあるのかもしれません。それはそれでいいと思いますが、きちんとこれまでの経緯をふまえ、どう移行すべきなのか、これまでの問題点はどこにあったのかもきちんと発言すべきではと思います。この30年のこの資格の管理運営は明らかに問題がありました。その失政も自らのまた業界の怠慢も自省し、指摘しなければなりません。
仮に現在の有資格者の正当性に疑問を投げかけることになったとしても、国が作ったシラバスだ、我々日本語学校で働くには修了が必要だ、と言われ、日本語学校や資格スクールに60万近くのお金を払い資格を取得し誠実に仕事をして長年日本語学校の歴史を支えてきた日本語教師達に対して「無かったこと」にするのはあまりに不誠実です。
加えて、昨今、表に出ないところで、日本語学校関係者によって、日本語教師の質が低下している、離職率が高い、などとということが(政策策定の場で)ささやかれているようです。しかしこれまで日本語学校の質(教育の質だけでなく労基法違反も含めた法人としての質も)が問われる問題はあまりに多かったわけですが、日本語教師の質が問題となったという例を聞いたことがありません。学校の質や学生の質(今の日本語学校の留学生はホントに留学希望ですか?)に関してはまったく業界として取り組みを行わず、養成講座の質に関する反省もなく、教師の待遇に関しては口を閉ざす日本語学校業界に教師の質どうこうを言う資格はないはずです。
この有資格者の存在を認めて、生かすことができれば、児童の日本語教育もスピーディーに解決できます。すでに日本全国におそらく10万人以上いるはずの有資格者から選考すればいいだけだからです。今は、公立学校では、この有資格は認めず、教員免許がないと働けないことになっています。国語教員に付加的な学習を与えて日本語が教えられることにするという方針が2017年に決まったばかりです。学校の教員と教員養成系大学の既得権は守る、ということでしょうか。あるいは、この既得権を守るために、いつまでたっても日本語教師の資格が正式なものとならないのかもしれません。
日本語学校に限らず、日本語教育業界は自らの過ちを認めないという体質があります。あまりに官庁との結びつきが強いせいか、無謬性の罠に陥っているのかもしれません。今、バタバタと日本語教育の議論をしている人達は、はたして今後も責任をもって誠実に日本語教育に向かい合っていくことを期待できる人達なのか?日本語学習者を声を代弁する気概を持った人達なのか?しっかり監視していく必要があると感じます。
この議論は、2018年の「文化審議会国語分科会日本語教育小委員会」で行われています。参加者の名前と発言を記憶しつつ、今後の推移を注目していきたいと思います。
→ そして、この教員養成の話でも、これから多数を占めることになるブルーカラーの日本語教育という視点が欠けています。これからは日本国内で、日本語の習得に対する意欲が低いことが予想される学習者相手に我慢強くコツコツと教えていく仕事が日本語教師だ、ということになっていくはずです。地味だけど大事な仕事です。「海外で活躍!」とか「日本が大好きな人に日本語を教える!」みたいなフワフワした宣伝文句でアピールするのは難しくなります。それでも日本語教師達が魅力ある仕事であることを丁寧に伝えることと同時に、安定的にしっかり仕事ができる体制を保証しなければ、若い人達が日本語教師という仕事を選択する可能性はありません。
日本語教師の資格は、民間資格とはいえ、1985年に国による検討がはじまり、多くの研究者が関わって文科省、文化庁主催の会議が開かれ、1988年に今の420時間というルールが出来ました。日本語教育能力検定試験は1986年にスタートしています。検定試験は日本語教育学会が作問、認定をしています。主に民間の日本語学校と資格系スクールが主催してきました。
これまでの経緯(文化庁)
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/nihongo_kyoin/02/pdf/sanko_1.pdf
しかし、1988年に始まったこの日本語教師養成講座は、国への届け出が始まり実質的な質的管理が始まったのは2017年。この約30年間、講師の資格も問われない、講座の質的な審査もないものでした。日本語学校はドル箱であるこの講座を自社の収益の安定と専任講師や非常勤講師の給料の補填として利用してきました。法務省が認定する日本語教師の有資格者となるためには
1)420コマ時間の講座の修了
2)日本語教育能力検定試験の合格
3)大学の日本語教育がある学科において文科省が定めた所定のコマ数を修了する
のおおよそ3つの方法がありましたが、長年、国内の日本語学校の就職では1)はマスト、2)はあればよい、という位置づけでした。3)の大学の修了者はほとんどの場合一般企業へ就職します。
つまり、長年、420コマ時間は国内の民間の日本語学校業界の資格の標準で、検定試験はそれを補完する存在でした。国内の民間の日本語学校業界はガイドラインもなく自らの自由にできる、かつ収益のかなりを占める養成講座を修了しないと日本語学校では就職できないという状況を作っていました。
私も経験2年くらいの非常勤講師が「養成講座の講師もやってます」と言うのをよく聞きました。2,3ヶ月の短期促成コースや「合宿で取得、先着10名は無料で我が校の講師に就任!」という広告もありました。講師が誰だかわからない「格安」をうたう15万くらいの講座や、DVDだけの10万の海外発の通信講座も「420時間クリアの正式な講座」でした。質的管理がないのでやりたい放題だったし、それを放置してきたということです。ここには日本語学校は大学や専門学校への留学ルートとして維持しなければならず、そのためには一定数の教師の確保は必要という業界と省庁との「あうんの呼吸」があったはずです。
→ 2017年にスタートした日本語教師養成講座の届け出は国内のものしか審査が受けられないことになっていました。
→ まずは実質時給750円くらい(45分コマ給で2時間拘束1500円が相場です)で年収100万円の非常勤からスタート。離職率は超高く、専任になれる保証はない。専任になっても零細企業なので身分も学校の経営も不安定。離職率も高く、業界は教師の待遇のデータさえ調査しない。若者にとっては海外で仕事ができるかもくらいの望みしか持てない仕事です。奇跡的に解雇も非常勤への降格もなく定年までやってもせいぜい年収400万円の仕事の割に、この30年間、多くの日本語教師はそれなりにがんばって日本語教育を支えてきたと思います。日本語教師が売り手市場になったのは、30年間のうちのわずかここ5年くらいのことです。日本語教育能力検定試験で若い世代を40歳以上の受験者の比率が越えたのは2010年前後、SNSが普及し出した頃です。日本語教師に若い人が来なくなり日本語教師不足だと言われ始めたのは、ネットで、いろんな現場のリアルな声や実態が可視化されたことも大きく影響していると思います。
→ 大養協が2018年に日本語教師の待遇に関するアンケートをネットのアンケートサービスを利用してやっていました。こんなにバタバタとやった、たかだかネットのアンケートを日本語教師の待遇のデータとして政策の議論に使われてしまうことに恐怖を覚えます(もちろん大養協は提出したデータを一般公開すべきです)。
政策の議論をしている人達には、この急ごしらえのネットのアンケートの数字よりも、こういう調査がこれまで無かったという事実のほうをきちんと受け止めてほしいものです。日本語学校系の組織である日振協やJaLSAには日本語教師の待遇に関するデータはほぼ皆無なはずです。文化庁も日本語教師の待遇に関する調査をしたことはないはずです。結局、この30年間、民間ではきちんと日本語教師を育成できなかったと結論づけてもよいと思います。
今、日本語教師の資格の方向性を決めている人達
日本語教育小委員会(文化庁)
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/nihongo/
この会議の現在の委員は、H30、5月の86回から編成されています。こちらの86回の資料にあります。
省庁関係者以外では
青 木 清 人 愛知県県民文化部社会活動推進課多文化共生推進室長
石 井 恵理子 東京女子大学教授
伊 東 祐 郎 国立大学法人東京外国語大学大学院教授・副学長・附属図書館長
井 上 靖 夫 学校法人柴永国際学園JET日本語学校長
大 木 義 徳 株式会社三井物産戦略研究所国際情報部主席研究員
金 田 智 子 学習院大学教授
神 吉 宇 一 武蔵野大学大学院准教授
川 端 一 博 公益財団法人日本国際教育支援協会日本語試験センター
試験開発グループリーダー併任作題主幹
三 枝 健 二 一般財団法人自治体国際化協会理事
徳 井 厚 子 国立大学法人信州大学教授
戸 田 佐 和 公益社団法人国際日本語普及協会常務理事
野 田 尚 史 大学共同利用機関法人人間文化研究機構国立国語研究所教授
松 岡 洋 子 国立大学法人岩手大学教授
村 田 春 文 独立行政法人国際交流基金日本語事業部長
結 城 恵 国立大学法人群馬大学教授
です。
日本語教育学会の前会長が責任者である主査、現会長が副主査、会議の仕切り役である座長が学会副会長の神吉宇一氏、と、学会関係者が名前を連ねており、実質的に日本語教育学会が中心となっていると言ってもいいと思われます。
現時点で公開されている議事録は、86、87、88回までです。身近でなくても、そこそこ届く範囲にいる人はいると思いますので、パブコメ経由ではなく、議事録で参加者がどういう発言をしたか、あるいはどういう発言をしなかったか(こっちのほうが大事です)、を読んで直接伝えるなり、SNS経由でリプを送るなりして「代表者としてしっかり発言してくれ」「これは言及するべき」と言うほうが届きやすいのではと思います。
今のやり方では日本語教師養成講座の質的管理は無理
2017年に始まったばかりの文化庁による日本語教師養成講座の事実上の届け出&受理は例えば講師の資格などに関しても明確なガイドラインもなく、最低限の資金力があり、書式が整えば(かなり評判が悪いところでも)受理されることになってきているようです。運営上のトラブルの予防は多少できても、おそらく質的管理までは無理です(文化庁で養成講座関連に関わっている担当者は「2人」という話を聞いたことがあります。これは日本語教育全般の担当が2人ということだったかもしれません。養成講座は全国に100以上あります)。これも一旦白紙化し、これまで民間に丸投げだった日本語教師養成はゼロベースで見直すべきだと思います。
日本語学校業界は、これまで管理できなかった教師養成は手放し、国家資格化を容認、推進すべきです。そして業界の責任として、これまでの「有資格者」には当然、新資格取得における大幅な(もちろん無償で取得できることも含めて)優遇措置が取られるべく尽力する義務があるはずです。国家資格だからといって生活が安定するとは限らないのは保育士の例からも明らかですが、もし国家資格になれば、正規、非正規の比率(現在は非正規が7割)も改善が期待できます。非正規の社会保険加入も義務化され、育児、介護休暇も取れるかもしれません。なにより教師の需給に応じた数の調整、養成計画が行われることによる安定した継続的な雇用も期待されます。現実の生活の場面ではクレジットカードを作る際や家のローンの審査も多少は通りやすくなるでしょう。少なくともこれまでの無法地帯からは脱出できる可能性があります。新人の日本語教師の大多数が高齢者という状況も改善されるかもしれません。日本語教師にとっては小さな一歩ですが大事な一歩にはなると思います。それは日本語教育の質的保証にとっても大事なことなのです。
日本語学校の問題はあくまで一部の問題というスタンス
一方で,問題のある日本語教育機関のニュースばかりが取り上げられることで,日本語教育機関や日本語教育自体に問題があるかのようなイメージが形成されることが危惧される。
という文言もありました。日本語教育学会には多数の民間の日本語学校の経営者などの会員がおり、これまで役員も多数輩出しています。報道に問題があるかのような、開き直りともとれる文章で驚きました。ここ数年だけみても、不祥事を起こした日本語学校のほとんどが日本語教育振興協会(日振協)やJaLSAという多数の学校が所属する組織の加盟校で、それぞれの組織が行うガイドラインに従って加盟が許され、自主的な定期チェックをクリアしたはずの学校でした。それらの組織の役員も多く日本語教育学会に所属し、役員も歴任してきているはずです。責任は免れないと思いますが、どちらの組織も、これまで個別の事案でコメントすら出したことはなく、報道が静まった頃にそっと加盟校のリストから削除するだけです。
→ 例えば、理事長自らバイトを斡旋しピンハネ、寮費を大幅に水増し、職員や学生を恫喝と2016年、最悪の事件だった東日本国際アカデミーは日振協所属で少なくとも加盟時と更新時、合計2度は審査を受けていたはずです。
日本語教育学会は、少なくとも民間のいわゆる日本語学校と呼ばれる教育機関に関して、問題意識をもって調査をしたことはないはずですし、そもそも、問題のポイントである日本語学校の学生募集がどのように行われているのか、という知識を持った大学関係者も少ないと思われます。例えば留学ビザのアルバイト時間はどうあるべきかという議論も学会で行われた記録は出てきません。もちろん日本語学校の業界組織団体でも学生募集や、日本語教師の待遇改善に関して具体的なことが行われているという記録もデータも示すことができないはずです。報道が偏っていると反論するなら、日本語教育とは関係のない学校周辺の法律や民間の労働法に詳しい第三者などを入れた機関を作るなどして調査し、学生募集は適正に行われているか、教師の労働環境はどうなのか、教材などの違法コピーは横行していないかなどを調査し、それを示すべきだと思います。
報道を腐す一方で、この意見書にはまさに報道で問題とされているようなことには一応言及しておこうというような姿勢があります。話題になっている家族や子供の日本語教育に関しては触れておかないと批判は出るから言及する。しかし、これまで日本語教育学会が見逃してきた技能実習生の日本語教育に関しては批判の矛先は法務省やJITCOに向かっているからでしょうか、自らの責任にはほぼ触れないままです。
→ 実は、新聞では日本語学校のイベントや入学式、卒業式の報道は、かなり多く、基本的には、日本語学校に関するポジティブな報道のほうが多いはずです。ネガティブな報道はほとんど犯罪がらみなので報道されて当然のもの。国内最大の学会がこれを「偏っている」と表現するのはとても恥ずかしいことです。
日本語学校の健全化は難しくない
日本語学校の規制はもう30年以上、問題が報道されたら審査の厳格化をしておいかけっこをしているわけですが、効果は薄く、まともに取り組もうとすればするほどコストばかり嵩みます。
留学ビザに労働力を期待するのをやめ、ほんとに留学志望者に絞ればいいだけです。日本語能力試験でN4合格じゃないと留学ビザを出さないことにして入口で「留学への本気度」で足切りをし、来日1年でN3合格をビザ延長のハードルに設定すれば簡単に実現するはずです。これは介護系ビザでもすでに行われていることですから留学ビザに適用するのに問題はありません。就労系のビザと違って専門学校や大学に進学する前提のビザであれば、N3での足きりは妥当です。
そして、大学や専門学校の学生の留学ビザとその予備校的存在の日本語学校の留学準備ビザ(就学ビザ)に再び分け、留学準備ビザの学生が進学のための勉強に集中できる環境作りをしっかりやることも重要です。日本語学校の学生数は2000年までは2万人程度でした。今、留学と就学に再び分け、日本語能力で足切りをし、本気の学生に絞ったら1万人強というところかもしれません。仮に、就学生のアルバイトを14時間に制限し、その代わりに、1万人に週14時間、月約60時間のアルバイト代の分だけ奨学金を支給するとして、時給800円で計算すると一人月48000円×1万人で月4億8千万、年額で57億6千万。国際交流基金の日本語パートナーズは2014年から2020年の7年で予算は300億。ほぼ同じ規模です。月額48000円の補助と住居が無償で提供されれば、日本の高校生並みのアルバイトで生活でき、勉強に専念できるはずです。(この7年で300億を奨学金として、あるいは国内の日本語学習の整備に使っていたら…と思います)
入り口で足切りをし、本気の学習者に絞るとなると、おそらく半数くらいの学生は日本語学校の在籍は1年で十分ということになるはずです(現在は最大2年)。日本語学校は2年滞在しないと利益がでないビジネスモデルとなっているから困るのではないか(だから入り口での日本語能力での足切りには反対)という本末転倒な話もあります。しかし日本語学校は、留学ビザ以外のところで今後国内外で増大していくことが確実な日本語学習ニーズに別チャンネルで対応し生き残りを図ることができます。そもそも日本語学校のために国の政策の根幹に関わるビザの性格をゆがめる必要はないはずです。
→ このまま「日本に留学するのは出稼ぎ目的」という印象が世界に広まり定着することは、日本の留学ビザ、ひいては日本の高等教育のブランドの価値を毀損することにもなります。
現状では、留学ビザは、学生集めは自由で無法地帯、アルバイトの職種に制限もなく、28時間を監視する機関はほぼない、日本国内で仕事の斡旋で利益を得ることもできる、生活環境、例えば住居に関する規制もなく、圧倒的に制度としては技能実習生制度よりスキマが多く、甘いということは日本語教育関係者の間でもきちんと理解されていません。技能実習生制度に必要なのは監視の強化で、制度そのものの見直し(留学と留学準備ビザの再度の区別、バイト時間の制限、日本語能力での足きり、仕事の斡旋禁止、住環境などへの規制)が必要なのは留学ビザのほうです。特定技能ビザもできましたし、留学ビザは日本語能力で足切りをして減らすことにすれば、自然に就労目的の人は新たに整備された就労系のビザに流れていきます。留学希望の人は留学ビザで手厚く保護し、就労目的の人は就労のビザでしっかりコントールしていくほうが双方にとっても利益が大きく、合理的なはずです。
日本語学校に留学ビザで来る人のうち、超少数派である「進学目的ではない純粋な語学の学習が目的の留学」は、民間より経営が安定し、講師の質が保証されているなど学習環境がよい大学の別科が請け負えばいいと思います。また、就職目的の人には留学ビザではないルートで対応できるはずです。仮に日本語学校がこの就職目的の人をターゲットにしたいのなら自らアジアに行くかネットでビジネス展開をすればいいのです。為替格差が10倍もある国の若者に、わざわざ学費と滞在費を負担させ100万近くの借金を負わせて、日本での就職のために留学ビザで日本に来て日本の日本語学校で勉強しろ、と言うのは理解しがたいものです。
日本語の学習が必要な人の数は誰が数えるのか?
あわせて,現状分析や課題解決の方策の検討を丁寧に行うことも強く求められます。現在,日本語教育を必要としている外国人がどこにどのくらいいるのか,そのおおよその人数や国籍等の全体像すら把握できていない。必要とされる日本語教育を行き渡らせるための方策も講じられていない。これらの課題は学術研究の範囲だけでは解決できないものであり,法的な整備とそれによる行政機関の関与の在り方について,基本的な方針を定める必要がある。
日本語の学習が必要な人の数は、国や企業に数えさせてはいけません。少なくとも日本語を学習する権利を持つべき学習者の数を数えることができるのは日本語教育の専門家だけであると主張すべきだと思います。日本語のサポートをすべき人の数が何人で、将来、どのくらいになるのか、独自の計算を提示すべきところでした。それほど難しい作業ではないはずです。
しかし、残念なことに、これまで日本語教育学会は日本国内の日本語の学習が必要な人の数を数えたことがありません。「おおよその人数や国籍等の全体像すら把握できていない」という言葉は日本語教育関係者への巨大ブーメランです。繰り返しになりますが、特に、日本語教育の研究者は、長い間、留学ビザと就学した児童周辺のことにしか目がいかず、未就学の児童、その家族、90年代から最大多数を占めてきたブルーカラーの日本語学習者のことを考えてこなかったという歴史があります。まずこれを誤りだったと認めることがスタートラインです。
未就学児童の問題がクローズアップされたのは民間の現場の人々の声のおかげです。日本語教育学会は90年代から文科省の学校に来ている児童への日本語教育のJSLプログラムにスタート時から関わってきており、政府と共に未就学の児童、学校周辺から漏れてしまう日本語の学習が必要な人達を見逃してきたという側面があるはずです。そして、今に至っても、日本語教育に関して、技能実習生の声を代弁する人はほとんど見かけません。特定技能ビザの人達もこの意見書を読むかぎりではまたもや見逃されそうだという気がします。将来、技能実習生や特定技能の日本語教育が問題だという声が大きくなり報道されるようになったら、また「困ったもんですね」と言い始めるのでしょうか?
日本語教育学会は、これ以上日本語の学習が必要な人を見逃すことのないように、まず日本国内で日本語の学習サポートが必要な人の数を数えることから始めるべきです。
遅すぎた「評価」の多様化
学習者の日本語能力に関する評価について,一般には日本語能力試験のレベルによって語られることが多いが,実際に何ができるのかといった具体的な能力記述の評価体系構築についても検討が必要である
2018年末に、日本語学校の質の指標として日本語能力試験の合格率を重視するという政府案が出たとたんに、日本語学校関係者とその支持者から「日本語能力試験に合格するかどうかなんて学校の質とは関係ない」「日本語教育の多様性に反する」という意見が急に出始めました。
しかし去年の2017年、まさに今の状況の準備段階とも言える時に、国会議員に対するヒアリングで国内の有力な日本語学校のほとんどが加盟する組織は、非漢字圏の学生はN1に合格するのが難しいからビザを2年から3年に延長してほしいとプレゼンしています。つまりここでは日本語能力試験は、ビザの延長の判断の目安にもなる重要な指標となっています。矛盾しないのでしょうか?
→ このプレゼンには漢字圏、非漢字圏の定義もなく、1.5倍の学習時間が必要だという根拠も書かれていません。私の知る限り、そんなことが書かれている論文はないはずです(能試の合格率が下がったのは、確かに試験慣れした東アジアの学生の比率が減ったことが多少影響しているだろうけれど、そもそも単に勉強目的じゃない学生が増えたからなのでは?と考える人は多いはずです)。プレゼン文書はこちら。
この評価基準もまさに、ほかの誰でもない、専門家である日本語教育学会が具体的に提言すべきものでした。80年代後半にすでに留学ビザより軽労働者で滞在している人の数のほうが多かったのです。そして、もう今年、2019年から年数万人単位で日本に来るという話です。
日本語教育関係者は、日本語能力試験のような大学進学前提の読解と聴解に偏った日本語能力試験では、多様な学習ニーズには対応できず機能しないことはずっと前から明らかだったにも関わらず、留学ビザから大学に進学する人のための試験としては日本語能力試験がそこそこ機能しているからと、国内のその他の日本語学習者の評価についてきちんと考えてこなかったのです。
→ 上で書きましたが、日本語学校の質的な評価が国によって行われ、ネットなどで公開され、可視化が進むことは、日本で勉強しようと考える海外の若者の学校選択のためにも必要です。一律で可視化可能な客観評価なら今は能試しかありません(推薦枠が多い大学や専門学校の進学率はほぼ意味のない数字です)。
これまで30年間、海外の留学希望者が、学校の質や性格などの情報が届かないまま学校を選択する情報がなく、ブローカーに頼らざるを得なかった状況のほうが異常なのです。能試が日本語学校の質的評価にふさわしいか?は学校を選択する人が考えて決めればいいことです。数年もすれば「あそこは能試の合格率は高いけど授業はいまいちだ」などとSNSで情報共有がされ、情報の調整が行われるはずです。今は、その目安になるデータがまったく存在していない。情報を出すところで変に調整する必要はありません。まずは透明性を高めていくべきです。ブローカーに投資できるみたいなおかしな営業力よりも、進学実績、や進学率、能試の合格率で競争するほうがまだ健全です。
唐突なCEFR「風」評価の導入
そして、ここには、わざわざ註があり
国際交流基金のJF スタンダードがある。このような能力記述文の考えを日本語能力評価にどのように位置づけるのか,既存の試験との関係をどう考えるかなどについて検討が必要である。
とJFスタンダードを軸にした評価基準の採用が示唆されています。
JF日本語教育スタンダードは今後、「必要最低限の日本語ができればいい」というような雇用者の都合(国や雇用者にとってのCan-do?)に合わせて単純労働に最適化された「行動中心主義」でもって、基金が作るという新たな試験と共に、国の言語政策の説明責任を果たし、日本の労働力強化のために活用されるということであるなら、国際交流基金の「国益としての日本語普及路線」とは合致するものなのだろうとは思います。
しかし、残念ながら、新たな日本語教育の指標として誕生したはずのJF日本語教育スタンダードは、複言語主義をベースにし、国を超えた公共圏の構築を意識して作られ、学習者個人が出発点であるはずのCEFRの理念とはまったく違った方向へと歩み始めることになるのではと思います。
日本語能力の評価を今後、どう社会に適用していくのかは緻密な議論と慎重な運用が必要なところです。日本語教育学会がJF日本語教育スタンダードをひとつの日本語能力の評価として推奨するならば、このJF日本語教育スタンダードが日本の日本語教育のスタンダードであると内外に宣言するようなものです。その方向性や運用に関して責任を持って議論し、国際的にも説明できるものにするべく深く関与していく必要があるはずですが、日本語教育学会はCEFRについて、その文脈化に関して、JF日本語教育スタンダードとCEFRとの関係について、きちんと議論したことがあるのでしょうか?
現実には、日本語を学習する権利の確保が曖昧なまま、単純に試験の合否がビザの取得、延長と日本語の評価が結びつけられてしまえば、例えば、N4やCEFRのA2さえ取得すれば、日本語学習に関する予算は出なくなるだけでなく、制度の中での学習時間の確保の保証もなくなる可能性が極めて高いわけです。学習権の確保がなければ、日本語能力試験であれ、JF日本語教育スタンダードであれ、一律の評価は、日本語の学習をする権利を制限し抑圧する「装置」として機能してしまうことになります。ビザの取得、延長のためのハードルが低ければ低いほど学習する権利は侵害されます。今の日本語教育関係者はそのことに無頓着なまま、無邪気に評価の最適化ばかり考えているように映ります。
ここに少し整理しましたが、この中にもある政府調査によると韓国では、元々、制度としてやるべきと定められた韓国語の学習時間は、入国前は150時間、入国後は20時間、合計170時間だったものが、合理化のため試験での選別に移行し、テストの導入によって入国前の時間が85時間に減ったとあります。しかし、現状では、研修の現場では、韓国語ができないという問題が37%となっていて解決したという報告はなかったとのこと。合格率60%というこの試験は、労働需要の声におされてテストは形式的なものになってしまったという可能性があります。(変更前も韓国語が話せない問題は散見され、その際「日本に較べて学習時間が少ないからではないか」という声があがっていたとのこと)
同じことが日本でも起こる可能性があります。日本語教育関係者は、国際交流基金が行うという「新たなテスト」が、労働力補填の調整弁のための都合のいい説明責任の理屈として利用されていないか、結果として日本語を学習する権利を侵害することになっていないか、しっかり監視する必要があると思います。
(以下はツイートからの引用です)
マクナマラ氏は,世界各国がCEFRを無批判に受け入れることで,「機能(経済通貨)」という一面だけで,言語の発達が比較されるようになった(競争が可能になった)と指摘し, その結果,多くの国で政治家や役人が教育や教員を管理し,説明責任を果たす道具としてCEFRが使われている現状を→(続) https://t.co/brddsDNhyg
— 羽藤由美 (@KITspeakee) November 18, 2018
フランスのACEDLE, ASDIFLE, Transit-Linguaが欧州評議会にCEFRの拡散の中止を求めた声明の概要。CEFRを弾劾する厳しい言葉が並ぶ。当のヨーロッパでさえ,教員や研究者の間からこのような声があがっている。日本でもこのまま無批判に受け入れるわけにはいかない。https://t.co/6y4yvy8ndO
— 羽藤由美 (@KITspeakee) November 19, 2018
*オリジナルのツイートのURLは https://twitter.com/KITspeakee/status/1064441246767177728
コミュニケーション能力=会話力という神話
もうひとつ懸念していることは、就労系ビザの現場周辺で聞こえてくる日本語能力はいずれも「会話力重視」であることです。一見妥当なようですが、実は、今、日本語に限らず、日常生活でメールやLINEなどがコミュニケーションに果たす役割は飛躍的に高くなっています。つまり、言葉を書き(入力し)読む能力は友人を作り、コミュニケーションを図るためにも欠かせないものになっています。もちろん、例えば、仮に特定技能で転職が可能となっても、パソコンで入力ができなければ転職先もかなり限られてしまうわけです。
コミュニケーション能力=会話力というのは過去のものになりつつあります。しかしながら、就労系ビザの周辺からは、口頭でのやり取りができれば仕事はなんとかなる、というような雇用主の都合だけでなく、例えば労基署で書類を提出したり、職場の違法な環境などをSNSなどで拡散されたりするなど、書く能力が潜在的に持っている一体多のコミュニケーション能力、「社会に対する拡散力」を恐れる意識も見え隠れします。日本語能力試験では書く能力は試されません。これに「話す能力」を付加することが必要だという意見は出ても書く能力は話題になりません。
キーボード入力やスマートフォンでの入力の学習はほとんどの日本語教育機関で行われていません。研究もほとんどありません。日本語教育関係者がブルーカラー労働者の日本語教育において、安易に読み書きの能力を過小評価しないか心配しています。読み書きの能力を軽視することで、生活者にとっての武器を奪うことになりかねない、という視点を持つべきです。「最低限度の日本語能力」という言葉には「必要以上にうまくなっても困る」という意図が隠されていることに注意すべきです。
例えば、就労系のビザは、職種によっては運転免許を取得することができるといってもごく一部です。仮に免許を持っていても、自分の車や原付を持っている技能実習生はほとんどいません。今、日本の地方では、車がなければスーパーやホームセンターにさえ行くことができません。書店や銀行の支店はそもそもありません。日本語の教科書に必ず出てくるいろんな店まで行けません。せいぜい自転車でコンビニや郵便局に行くくらいです。バスなどの移動手段も減る一方です。町の中心からちょっと外れるともう病院や役所にも車無しには行けません。日本語でネットを活用できないと服も本も買えません。日本の地方の生活は、車があるという前提で作られており、生活がなんとか成り立っています。移動手段を持たない者の地方での不自由、孤立感はアジア各国より大きいと思います。このような環境ですでに移動の自由が制限されている人達に、偏った日本語能力しか与えない罪は計り知れないくらい大きいのです。
日本で生活するための日本語教育には、これまで積み上げられてきたものがいろいろと(例1,例2,例3)あります。これらにやさしい日本語を加味した新たな評価軸を作っていくなど、まだまだ選択肢はあるはずです。日本語教育学会には、いろんな個別の蓄積はあるとしても、圧倒的に「議論の蓄積」が欠けているのではないかと感じます。
これまで、日本語能力試験に丸投げしてきた日本語能力の評価方法を今後どうするかは、日本語教育の研究者に投げかけられた最も重要な問いです。日本語の能力とビザの取得や延長、永住や市民権などを安易にリンクさせてよいのか、ということも慎重な、緻密な議論が必要です。日本語の学習が必要な人の日本語の学習する権利を抑圧するのは政策の不備や雇用主の無理解だけではありません。日本語教育の専門家だと言われる者達の「こういう人達にはこの程度でよい」という認識の影響力は大きいという自覚を持たなければなりません。
社会政策における日本語能力の評価の運用というものはとても難しく、枠組みだけでなく運用とセットで提案し、実際に運用にも関わっていく必要があります。研究者という人達は運用に責任を持たない傾向が強いですが、日本語教育では特にその点が顕著だと感じます。
こういう職種、ビザの人にはこの程度の日本語でよい、というような学習者の学習する権利を制限、抑圧しかねないことを(そして日本語教育において特に研究の蓄積もないことをエビデンスも示さずに)あれこれと言う前に、まずは日本語学習者が日本語を学習する権利の確保を言うべきなのではないでしょうか?
その他の諸問題
やさしい日本語の対象ではない人達がいる?
また、やさしい日本語の研究者達の沈黙も疑問でした。やさしい日本語は、その整備と共に、日本に住むすべての日本語学習者がやさしい日本語が理解できるレベルに到達できる学習時間の確保は必要不可欠なものであるはずです。やさしい日本語にはいろいろと流派(必要な学習時間も150~300時間と幅がある)があるようですが、少なくとも現在、メディアや自治体で使われているようなものを理解するためには最低でも200時間+αの質的に保証された学習時間は必要なはずです。
やさしい日本語は、推進する関係者によってすでに広がり始めており、公共サービスや災害時の標準言語となる可能性があります。今後、日本で働き生活する人達にとって、大きな目安となることを運命づけられています。財政状況が厳しい地方行政において、やさしい日本語は常に多言語化をしない口実となってしまうというリスクを抱えています。つまり、すべての人にやさしい日本語が理解できるまでに到達できる道筋を作れないままでは、多くの人がやさしい日本語に置き去りにされる可能性があります。
やさしい日本語を推進する人達は、すべての人のやさしい日本語に到達できる学習時間の確保を強く主張すべきでした。結局、やさしい日本語の関係者は、運用と実効性に対しては責任を放棄したのではないか、研究者の予算と身分の確保のための単なる行政と大学の形ばかりの連携事業に過ぎないのでは?という疑問が残りました。
よく「生活者としての日本語教育」という言葉が使われますが、これまでも技能実習生に対してはやさしくなかったやさしい日本語関係者は、今回の単純労働で帰国前提のビザを保持する人達は政府の定義に従って「そのうち帰国する人達」だからと「生活者」に含めないんでしょうか。
どこまでが日本語教育か?
技能実習生や新たな特定技能、介護などで、特に海外の送り出し国で行われている日本語教育の中には日本語教育と語りつつ「人間教育」と称する過剰な人格に対する指導のようなものがあります。これに対しても日本語教育学会は注意を払っていくべきではないでしょうか?初級段階で社是を復唱、暗唱するのは日本語教育でしょうか?日本文化の学習として会社への忠誠、上司への服従を教え込むのは日本語教育でしょうか?
おそらく今後、国内でも、日本語教育という名目でいろんなことが行われることになるはずです。日本語教育が関与してよい境界線を作っておくことが必要になってきているのではと思います。ここも日本語教育学会がやらなければ、どこも何も言わないままになりそうです。
留学ビザのアルバイト時間の28時間は適正なのか?
CEFR的な評価基準の導入、やさしい日本語などは、ある意味では、移民の時代と語学に関してはひとつの世界的な流れでもあります。近視眼的な議論になりがちな政策論議の中で、このようなことを政治に示していくのも専門家のやるべき仕事のひとつだとは思われます。しかし、日本語教育学会は、国際的にも突出して例外的な日本の留学生のアルバイト時間に対しては意見表明をしたことがありません。留学生がアルバイトをするのは何より「学費」のためなのですが、ここに目をつむるということは大学関係者には、自らの職場の確保が優先だからスルーするという暗黙の了解があるということなんでしょうか?
残念ながらこの留学ビザとアルバイトの問題は日本語教育関係者の基本的な知識が足りず、理解が浅いという問題があります。まず確認しておきたいのは、日本語学校のように、進学のための予備教育は正式な留学ビザではなく、進学準備ビザであることが国際的な「標準」です(日本も2010年までは別でした)。そして、当然進学準備ですから各国、アルバイト時間は、留学ビザよりかなり制限されており、例えば、ドイツ、カナダ、イギリスはほぼバイト禁止、韓国は来日して半年は禁止、ニュージーランドは国の審査に通った学校だけ週20時間、フランスと豪州は留学ビザと同じですが、仏は週18時間、豪は週20時間までです。
進学準備を経て進学し晴れて「留学ビザ」を取得した人のアルバイト時間も、基本的に成人の法定労働時間(たいてい40時間弱です)の半分以下です。留学ビザの時間も厳しく制限されており、これらは国内の労働者を守る意味もありますが、基本、勉強のために来た留学生を守るための施策だと思われます。学費の不足分は奨学金などでサポートするというのが基本的な考え方です。おそらくアルバイト時間が拡大となると各国の大学関係者は反対するはずです(海外の語学教育の研究者と議論してみてください)。
この中で、留学だけでなく留学準備ビザの学生が28時間働ける日本は突出しています。例えば中国は留学ビザでも完全にアルバイト禁止ですが、留学生は100万人を突破しようとしています。日本の大学は、国際競争をアルバイト時間が多いことで勝負するしかない、という「お家の事情」は日本の大学関係者はみな薄々わかっているはずです。
本来ならば留学生が勉強できるよう守るべき立場の日本語教育関係者が、週28時間もの労働を課すことに反対しないのは不思議です。留学生は学費を、つまり教師の給料を払うためにやっているのです。日本語教育関係者は、勉学が目的であるはずの留学生に対して、労働力として活用しよう、働かせようという人達に対して、きちんと釘をさし、防波堤になるべきなのではないでしょうか?そして、アルバイトをしなくて済むような奨学金制度(そうであるためには、学校への補助ではなく留学生「個人」への補助でなければなりません)や学費の割引制度を作ろうというような提言が聞こえてこないのはなぜでしょうか?
以下の表と補足は、このブログの「【資料】 日本語教育関係のデータまとめ」からの転載です。
留学生に許されているアルバイトの時間数の国際比較です。左から週あたりの時間数。許可が必要か。時間の所属教育機関での監視が必要なら○。同じく教育機関からの報告義務があるなら○。参考の法定労働時間は一般社会人の法定労働時間です。
→ 資料
外国人留学生の受入れとアルバイトに関する近年の傾向について 2015 志甫啓
http://ow.ly/xCGh309jxAx
諸外国の労働時間制度の概要 2005
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/05/s0520-7a.html
労働政策研究、研修機構
http://www.jil.go.jp
留学生の資格外活動許可基準の歴史的変遷とその諸問題
https://drive.google.com/file/d/1nDECqH73lMReqJmeMCxd8HZGM7eHY4r3/view?usp=sharing
最後に
私は日本国内で、長年プライベートレッスン専門でやってきました。最初は「日常会話ができれば」「仕事でちょっと話せれば」「国内旅行とかレストランで注文できれば十分」と言っていた人達が、生活する時間が長くなるに従って、近所付き合いが始まり、友人ができ、恋人ができ、転職し、結婚し、多くの人達や社会との関わりが増え、より勉強したい、あるいは、しなければならなくなる姿をたくさん見てきました。「こういう目的で日本に来た人にはこの程度の学習でよいと安易に考えることはできない」というのが実感です。共に生活する人なのですから、他のほとんどの国にはある「学習したいと思った時にいつでも日本語を学習できる体制作り」が必要です。
ほとんどの先進国では、すべての在留者にほぼ無償で有資格者による500時間程度の言語学習機会が提供されているだけでなく、学習者の母語教育もサポートされており、政策の推進にも運営にも、その国の言語教育学会など大学の研究者が深く関与しています。CEFRも言語学、言語教育の専門家によって作られ採用されるようになったという歴史があります。
日本語教育に関わったことがある人であるならば、少なくとも初級を学ぶ時間は確保されなければならない、それは語学学習や留学が目的ではない(日本語学習へのモチベーションが比較的低い)学習者を想定するならば、例えば介護の技能実習で設定された200時間では少ないことは明らかだと考えるはずです。国に、学習者の立場にたって、ここのコスト負担を、データを携えて「具体的に」迫り、政策に影響を与えることができるのは日本語教育の専門家、研究者だけなのです。
しかし長年、残念なことに、日本だけは他国とは違って、日本語教育の関係者は社会に積極的にコミットしようとしません。会議に呼ばれ意見を述べることはあっても、専門家としての意見を国にぶつけることも社会に問うこともありません。研究者も学校関係者も長い間、国から下りてきた仕事を淡々と請け負ってきたという歴史、意識、関係、があるからかもしれません。政府関係者から出てくる「案」を見る限りでは、今も見えないところで「日本語教育はこの程度で大丈夫ですよ(そのかわり、ここはウチでやらせてくれ)」と政策の策定者にささやいている日本語教育関係者はいるのではと思います。
2010年代、日本語教育に関する政府の会議は数多く開かれ、これまでのやり方は大きく変更され、今後数十年の方針が決まっていきました。この中で具体的な提案ができなかった日本語教育学会は、おそらく近い将来、しっかりとした日本語学習の機会を持てなかった人たちが日本で生活をする上でぶつかるいろいろな困難に対して責任を負わなければならない日が来るはずです。意見書はまず「我々はあまりに準備不足だった」と始めるべきでした。
2018年末に巻き起こったブルーカラー労働をになう外国人の待遇に関する批判の刃は、それまでブルーカラー労働者を日本語学習者とみなしてこなかった日本語教育関係者にも向けられていたのだという自覚を持つべきでした。繰り返しますが、学習者の権利を守るという意志を表明しないままで、日本語教育関連の法律ができれば、日本語学習者が日本語を学習する権利が保証されると考えるのはあまりに楽天的です。日本語教育学会は、まずは日本語を学習する人の学習する権利を守るという立場にたち「すべての日本語の学習が必要な人に無条件、無償で質的な保証がある500時間の学習時間を」というような具体的な主張を社会に向けて発信し、国に実現を迫る必要があります。
これから日本語教育に関わる研究者達は、日本の社会や言語政策に関わることを避けることはできないはずです。そのことから逃げない研究者達が学問の独立を国や社会に対して示すことになる日は来るのでしょうか?
あるいは、今後も日本語教育は国や企業の人材確保の道具としてありつづけ、都合のよい下請け業界のままで生きていくことを選択しつづけるのでしょうか?
私たち日本語教師は、国や企業や大学のために日本語を教えているのでしょうか?それとも、学習者のために日本語を教えているのでしょうか?
論文、資料などは、日本語教師読本の日本語教育の言語政策を参照してください。
【追記 コロナ下の日本語学習者】
この記事はコロナ以前に書かれました。以下は2021年6月下旬の追記です。
コロナ下の日本語教育業界の対応はここに別途ページを設けて整理しています。
コロナ下においても、業界に学習者を守るという姿勢は弱く給付金問題でピントがずれた盛り上がりを見せただけで、業界のガイドラインに住環境の整備などは盛り込まれず、結果としてずるずると感染者を増やしてしまうことになり、クラスター化の報告や公表などもガイドラインで規制をしないまま学校まかせなので、自治体によってクラスターの公表非公表のルールは違うこともあり、ちらほら発表されてしまう、という事態になっています。
おそらく各業界団体は現時点(21年6月)でも加盟校の感染状況を把握していないと思われます。報告させると管理責任が生じ「知っていて公表しなかった」と言われかねない案件だからかもしれません。しかし保健所や地方自治体は把握しているので、地域で失った信頼は大きい。これは今後、日本語教育政策に大きく影響する可能性があるのではないかと思います。
学生がハイリスクな生活環境を送っているのはわかっているはずなのに留学生に優先的にワクチン接種をしてくれ、という声が関係者からはあがらないのは、住環境の問題がクローズアップされるのを嫌い、将来、ここに新たな規制がかかるのを恐れたのかもしれません。しかし、いずれにしても、もう学生をワンルームに2人つめこむようなこと(3LDに複数人住まわせるようなこと)は出来なくなると思います。手弁当で留学生を受け入れる時代は終わりそうです。
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