何かを気づかせるための仕掛けはいろいろあります。何かの呼び方がそれになることが多いです。呼び方、名称には確かにいろんな思い込みがすり込まれていることがあります。
定期的に話題になる「文型を『入れる』と呼ぶな」「学習者を生徒とか『あの子』と呼ぶな」「自分を『先生』と呼ぶな」みたいなことは、言わんとすることはわかるし自分もそう呼ばないけども、これらは単に定着の度合いとしての入れる、だったり、単に慣習の延長での子や先生に過ぎなかったりということもある。「入れる」という語を使う人が、理解度に対する繊細な観察眼を持つ人であったり、「あの子達」と呼ぶ先生や現場の親方が、どちらかというと、(少々暑苦しいものであるとしても)学習者や部下を大事にし、繊細なまなざしを向けるタイプの人だということもあるわけです。そういう関係性が機能することも結構ある。また、ダンスなどで「振りを入れる」と呼ぶことは結構な納得感をもって受け入れられています。まねごとではなく、消化し、肉体化するぐらいのニュアンスでしょうか。
この種のことを材料にした「これをきっかけに考えてみよう」的な、ワークショップのちょうどいい仕掛けみたいなことが、何かを生むことは本当にあるのか?は疑わしいのではないかと思っています。例えば、受講して、そうだそうだ、となった人も、一方で、平気で「自分の授業は見学可です」と授業をあたかも自分の所有物であるかのように言ったりします。これは授業を見学させることが素晴らしいという文脈で語られ、そこに目がいくことで、見えなくなっているわけです。
学習者との関係性のゆがみ、支配、人権、みたいなことを学んだつもりでも、一方で、自分の学校で厳しい生活管理をすることは仕方ないことで、怪しげな日本文化を教えることにも目は向かない。制度として日本語能力と在留資格を紐つけるのはどうか?みたいな問いにも繋がっていかない。
母国語を母語と言ったり(あるいは第一言語と言ったり)、生徒を学生と呼ぶことは、せいぜい仲間内の意識の高さの暗黙の目配せになるくらいで、そのうちに単なる記号となってしまう。この種の「気づき的なもの」は結局、何にも繋がらず、使ってはいけない語として消え、正しい語は規範となり、時間の経過と共に退屈な業界用語となる。
この種の蓄積されない気づきの断片だけがワークショップやセミナーでただただ消費されていく。しかし、気づきや学びの物語を体験したい人は多いし、気づかせたい教師も多い。おそらくこういう授業は満足度も高いでしょうし。教える側も満足度を追ってるみたいなところもある。
でも、「あーはいはい、そういうやつね」と手品の種を知っている人には通じない。仕方ないので、手の込んだ手品を追求するしかなくなっていく。しかし教える側が追求するのは高度な手品なのか?という疑問が残ります。
👉 なんとなくの補足
- 気づかせる仕掛けを施した授業というのは、ほぼ、教える側の誘導であって、強くコントロールされた予定調和に過ぎない、という側面があるのでは?というような記事です。気づかせるというプロセスにダークな策略を感じます。
- これはやり方次第ということではなく、自ら気づかせるという仕組み自体が誘導的だ、という話です。一見学習者主体みたいな装いであることも罪深い。そもそも授業で気づかせる必要は本当にあるのかな?と思ってます。
- 「気づかせる」という発想に、すでに確定した真理があるかのような前提を感じます。教える側のチープな思い込みが結論となっていることもある。もちろん考えるきっかけで留めることもあるみたいですが、どうも、教えるほうも学ぶほうも、わかりやすい結論を準備&求めがちな気がします。
- もちろん、語学学習における「文法の仕組みを気づかせる」みたいな話とは別です。
【参考】
「あの子」問題から「教師‐学習者」の関係について考える
http://gbki.org/dat/proc2013/01arimori.pdf
学生と生徒
https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2015/04/pdf/062-063.pdf
「生徒化」している大学生と「学生化」への移行
https://berd.benesse.jp/up_images/textarea/08_daigakusei_sec5_P58_69.pdf
職人における親方と子方とは?関係性や違いを全て解説します | 現場職人Labo
https://dodode.net/craftsman-oyakata-kokata/