【memo】RIPの距離

RIP. とか R.I.P. とか表記についてはいろいろあるようですが、RIPでも大丈夫ということになっているらしいです。英語圏では生きてる人にわざわざ使って「死ね」的に使うこともあるとのこと。由来はラテン語のrequiescat in paceということで意外と難しい。英語でRest in Peaceというバリエーションもあり、お墓に刻む決まり文句で、キリスト教の「(死は終わりではないので)最後の審判まで寝て待ってて」みたいな意味があるとのこと。「アールアイピー」と呼ばれることもあるのかもしれませんが、あまり聞きません。「レストインピース」とあまり文字数も変わらないので、ネット専用の書き言葉というタイプの語でしょうか。

同様によく使われる「冥福を祈る」は仏教方面の影響が強い言葉のようで、これは死んだ後に行く世界で幸せに過ごして、みたいな意味で、当然、RIPとは意味が違う。仏教でも宗派によって使わないところもあるので、マナーの本のたぐいには「お悔やみ申しあげます」が無難だとよく書いてあります。

RIPはGoogleトレンドでは、
https://trends.google.co.jp/trends/explore?date=all&geo=JP&q=RIP&hl=ja
となってました。ネット時代に増えたという印象ですが、いつ使われるようになったかは、もっと調べないとわかりません。

SNSが無かった頃は、少なくとも他人に向けて誰かを追悼する習慣などはほとんどなかったわけですから、SNSが現れて以降、人はやたら追悼することになったと言ってもいいと思います。

気になったのは、誰に向けて使うかです。「おはよう」は家族にも使うが「こんにちは」は使わない、みたいな区別があったりしますが、RIPは家族に使うのは微妙です。家族がある人は、自分が死んだ後、自分の配偶者や子どもが「残念です。RIP」などとSNSに投稿することを想像してみて、なんとなくモヤモヤする人もいれば、サッパリした関係だったからいいかという人もいるかもしれません。RIPには「ろくでもない親父だったが酒好きなことは遺伝だな RIP」みたいな投稿がピッタリで、そこはかとないロック臭もします。

RIPには、なんとなく他人行儀なニュアンスがあるとしても、家族の親密さによっては使われてもおかしくないような気もします。同居してない家族とか親類、結婚して家を離れた人。離婚した前の旦那、くらいだとむしろRIPくらいがピッタリくるような気もします。

家族以外はどうか? 友人、親友と知り合い程度の関係、恋人、同級生、同僚、上司、同じ会社、取引先。日本の場合、キーボードタイピングの壁というのが1960年代あたりあって、それ以前の人はSNSにはあまりいないので、高齢の人のことだと気楽に投稿できるという感覚が少しあるかもしれません。でも親族や関係者はいるかもしれないので「あ、部下の**さん、RIPとか投稿してる」と発見される可能性はあります。有名人と違って会う可能性があるかもしれないくらいの知人に対してRIP投稿はややしにくい?

会ったことがないという意味での知らない人、有名人、政治家は、もっともRIPが使われそうな対象かもしれません。しかしすごく好きな有名人には使う気にならない、ということもありそうです。

関係性か、対象への気持ちの濃淡か、微妙なところです。日本語学校で学生が作文かなにかで、自分の家族の死を書いた際に、RIPと書いたら、どう判断するか? なぜ使ったのかをたづねて「日本のSNSではよく使われているので、人が亡くなった場合に使うのかなと(リアルな、こなれた日本語表現だろうと考えて)使いました。ええと、レストインピースでしたっけ?英語ですよね」などと答えられたら、どうするかという課題はありそうですし、「日本の若者はほとんど無宗教と聞きましたが、冥福といいRIPといい、日本人は死んだらどうなるか、どう考えているんですか」などと詰められそうな気もします。日本語教師はうっかり追悼投稿はできないかんじです。

訃報あってこそのRIP投稿

RIPに欠かせないのが訃報投稿です。

ここ数年、訃報にRIP投稿が続くのは明らかに増えています。おそらっく、メディアでも、SNSで訃報は結構バズるということになっているはずです。あんまり知らない人でもRTをし、SNS特有の投稿のネタ探し的なマインドの結果「そういえば弟が好きでした。RIP」などとついつい自分もRIP投稿しがちなコンテンツと言えます。

当然、おそらくメディアは、日々死んだ人はいないか、前にも増して探していると思われます。10年前なら記事にならなかった人でも訃報がでる、みたいなことも増えているような気がします。SNSでバズりやすいアニメやマンガ関係の訃報はよく見かけますから、明らかに訃報候補に入っている。NYTなどメジャーなメディアは訃報専用のSNSアカウントを持ってます。「その訃報だすか。さすが**はわかってる」みたいなことはネット以前もありましたし、追悼文や経歴をどう書くかでメディアの質がはかれる、みたいなことも言われます。訃報を集めて投稿するBOTアカウントも人気。

一般の人も無意識の中にバズるというイメージがあるからか、SNSで、訃報は投稿されがちで、これもあまり知らなくても「**さんは大学で講義を受けました。RIP」みたいなRIP投稿が結構でます。本を出している人の訃報は「読みました」的なRIPも増える。こうやって知らない有名人の訃報は増え続けることになり、RIP投稿も増え続ける。訃報投稿が増えたのをみると、ネットも今や「世間」になったんだなという気がします。

X(Twitter)だと、訃報をRTしてRIPを投稿するか、引用RTか、エアRIP投稿か、の判断は発信者に対してお悔やみを伝えておかねばという社交的な理由も関係してそうです。ただし、大手のSNSというのは、利用者の数からいうと、ある意味パブリックな場所ですが、所詮、私企業のデータセンターの中で記録されるだけです。特に、2023年以降は、投稿された内容の個人情報など、権利のかなりの部分はその企業が持つという場所で、主催企業が倒産したら消える場所でもあります。検索機能も弱く、数週間もすれば検索対象ですら無くなってしまい、投稿自体がすぐに死ぬ場所で訃報関連の投稿が大量に投稿されているという皮肉もあります。

有名人に対するRIP投稿は、追悼、社交だけでなく、フォロワーや世の中に対して「この人知ってます」と言いたい、というようなニュアンスもありそうです。弔問外交というものがあることからも、儀礼的な挨拶でいえば、年賀状よりも弔意を示すことが乗っかるので、新たな人間関係に繋がる可能性があるということでしょうか。SNSでもRIP投稿をきっかけに人間関係が深まるという弔問外交的なやり取りがあるのかもしれませんし、RIP投稿には、そういう期待も若干まじってるのかもしれません。深く追ってないのでわかりませんが。

いたずらの天才』みたいなプラクティカルジョークをやるなら、例えば「生涯を日本語の研究に捧げ、日本語教育にも多大な影響を与えた 木の元俊二先生が亡くなったとの一報を受けました。信じられない」と存在しない架空の偉大っぽい人物の投稿をして、数人で「木の元先生のご著書には大きな影響を受け、また生前は大変お世話になりました。RIP」とか「我々の世代で先生の影響を受けなかった日本語教師を探すのが難しいほどです。RIP」などとRIPをすれば、それに引きずられて知らずにRTしたり「私も実は先生のお考えには大きな影響を受けました」などと「追いRIP投稿」をする人が現れるかもしれません。

👉 『いたずらの天才』、戦後のアメリカの大人のいらずらを集めた文庫です。おもしろいけど絶版ですごく高い。ブックオフでみつけたら買いです。