本を読んでいないので、内容に関しては原則として言及しません。起きたことの整理と考えたことを少し。基本記録です。何かリアクションがあっても、対応しません。これ書いて終わりです。記録としても23年の12月末で終了します。せいぜい追記があるかどうかくらいです。
また、私は出版の仕事をしてますが、まだ10年ちょっとで、ほとんどのことは素人の域を出ず、今後も玄人にはなれそうにありません。しかも、自分を出版業界の人間だとはまったく考えていない1ので、以下は、ちょっとだけ出版に関わっている一般の人間として、外から観察した印象です。2010年前後は日本語の本を英語や中国語に訳し、海外のアマゾンで語学学習ジャンルでベストセラーになったこともありますが、まったく初期コストが回収できず、今は、翻訳しての出版はほぼ諦めています。もちろん、この13年で出版前にボツになった経験がいくつかあり、そのたびに大きなダメージを受けています。現在もその直近のダメージと格闘中で、出版だけでは生活できていない、という状況です。
ただ、何かを言うと、敵味方でやり合っている人達に「こういう敵/味方がいた!」と、オカシナ形で引用されたりして、ネット上で取り囲まれて糾弾されるあの渦に巻き込まれるかもしれないし、流れ弾が飛んでくるかもしれない。というような、ウンザリするような空気が今のSNSにはありますから、正直、言及したくはないのですが、自分の記録と整理の意味で書いておきます。
前段の整理
まず出版してはいけない本はあるのか?という問題があるだろうと思いました。爆弾や毒の作り方が書いてあればモラルに反するというのは思いつきます。個人を中傷する内容は、たとえ小説という体裁でも裁判になればアウトになるということもつい最近起きました。
医療関係、誤った民間療法、例えばガンは手術するなとか、血圧の薬は飲むな、ワクチン陰謀論的な本は、影響は深刻で、実際に子宮頸がんなどは国も及びごしになり、その結果、死亡率が日本だけ上がったりしていますが、大手、中小関係なく出版はされています。です。23年には、出版されたものの、事実誤認だらけで出版がストップした例もありました。これは出版され、批判され、それが妥当だという判断で出版がストップしたわけで、こういうことは時々あります。
この種の本は確かに増えています。出版不況で事前に十分にチェックする余裕が無くなったことも大きな要因だと思いますが、とにかく売れる本を作らないとと出してしまうというケースもあるんだと思います。一定の読者層がいて、まとめて購入してくれるようなケースもあるので、利益がでるギリギリのラインはクリアできる、みたいな事情があるんでしょう。
👉 ただし、今は、自費出版でも、ISBNを付与してアマゾンで売ることができます。しかし翻訳本は、有名著者でも、海外でベストセラーでも、この方法で出すのは無理でしょう。数万部を目指すなら書店に並ばないと無理ですし、翻訳本はコストの回収すら無理そうですし、まして利益を出すのは絶望的だと思います。
👉 今でも大多数の人達は、活字の本は出せば数千部は売れて、そこそこ商売にはなっているだろうと考えていますが、まったく違います。しかし不景気な話は出してもいいことは無い。このイメージのギャップに苦しんでいる出版関係者は多いと思います。
自由とその制限
なるべくわかりやすくザックリと書いてみます。
その他、出版してはいけない本はあるのか? と問われた場合、上記のようなパッと思いつくような例外を除き「ない」という解答をするという選択肢があります。出版され、批判を受ければいい。自由主義社会では批判が許されていて、批判される本が出版され、議論が起きることで、むしろ、人が考える材料を提供しているともいえます。なんとなく抱えている不安や不信が「言語化」されることで、例えそれが誤っていてもスッキリする。結果、誤った確信を持ってしまうという副作用はあるとしても、逆にきちんとロジカルに批判されるというメリットもあるというわけです。もちろん、誤りがない本を探すのは難しい。論文でさえそうですから、誤りがあるからという理由で出版するなとは言えない、というような立場です。
出版されるべきではない本が「ある」と答える人は、表現や出版の自由を制約すべきという主張をすることになるので、そのラインを考えて説明する必要があります。きちんとしたロジックが求められることになると思います。こういう理由で、こういう表現がある場合は問題である。その上で、出版をするべきでないという個別の本に対して、こういう要素があり、それが先に述べた一線を越えている、というような説明であることが必要です。なんとなく不快だ、で出版を止めることはできない、というのは考え方の違いを超えて共有されていると思います。
今回は、海外で、自由主義圏の国々で、すでに出版されている本です。出版するしないは国によって判断すればいいことで、そういう意味では、英語圏でベストセラーだからといって、出版すべきという理屈は成立しませんが、すでに他の国では、出版はしてもよい本だとという予選はクリアしていると考えることはできると思いますし、多く読まれたという事実は、海外事情としても、それが日本に影響を及ぼす可能性を考えても、知っておくべきだろうという要素にはなると思います。もちろん、海外でも出版後、内容に関しては多くの批判があったようです。このページの最後に掲載しています。
キャンセルカルチャー
という言葉がありますが、これは主にすでに売られているものに対するボイコット的なもので、それを過去の事件などに遡ってやるかどうか、みたいな話しで、いろいろ議論があるところです。今回の本はすでに出版されているとはいえ、日本では無名の著者、本が出版前に停止になったということなので、ちょっと使いにくいかなと思います。
今回の件の基本的なことと出版停止の簡単な経緯
米国では出版されベストセラーになっているとのこと。原題は『Irreversible Damage』著者はAbigail Shrier。日本では無名で、本人のサイトはここ。出版年は2021年です。
https://www.amazon.com/Irreversible-Damage-Transgender-Seducing-Daughters/dp/168451228X/
監修は岩波明氏。翻訳書としてしっかり準備されたという印象です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%98%8E
刊行中止までの経緯
KADOKAWA、差別扇動的との批判相次ぐ書籍を刊行中止 「トランスジェンダーの安全人権を脅かしかねない」との意見書も(1/2 ページ) – ねとらぼ https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2312/05/news208.html
出版関係者による意見書
KADOKAWAの刊行中止の文書
【KADOKAWAの謝罪文全文】
学芸ノンフィクション編集部よりお詫びとお知らせ
来年1月24日の発売を予定しておりました書籍『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』の刊行を中止いたします。
刊行の告知直後から、多くの方々より本書の内容および刊行の是非について様々なご意見を賜りました。
本書は、ジェンダーに関する欧米での事象等を通じて国内読者で議論を深めていくきっかけになればと刊行を予定しておりましたが、タイトルやキャッチコピーの内容により結果的に当事者の方を傷つけることとなり、誠に申し訳ございません。
皆様よりいただいたご意見のひとつひとつを真摯に受け止め、編集部としてこのテーマについて知見を積み重ねてまいります。この度の件につきまして、重ねてお詫び申し上げます。
2023年12月5日株式会社KADOKAWA学芸ノンフィクション編集部
『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』の刊行中止 – Togetter https://togetter.com/li/2271761
この件のSNSの投稿は、この意見書の投稿が12月4日で、刊行中止が7日なので、12月1日から中旬あたりで高度な検索でキーワード検索すれば、拾えると思います。
出版停止後のリアクション
著者はcensorshipによって出版できなくなったと抗議
Kadokawa, my Japanese publisher, are very nice people. But by caving to an activist-led campaign against IRREVERSIBLE DAMAGE, they embolden the forces of censorship.
America has much to learn from Japan, but we can teach them how to deal with censorious cry-bullies. https://t.co/ReogpOaQtD
— Abigail Shrier (@AbigailShrier) December 5, 2023
出版停止を求めていた人達ノリアクション
最初の意見書を出した人達は
この度、出版関係者有志で「トランスジェンダー差別助長につながる書籍刊行に関しての意見書」を提出した『あの子もトランスジェンダーになった』が刊行中止になったことをKADOKAWAの公表にて確認いたしました。今回のアクションはここで終了といたします。
有志一同以下、有志代表 小林えみ 私見▼
— 小林えみ:Emi Kobayashi,editor KOBAYASHI MAPLE (@koba_editor) December 5, 2023
以下、貼るとページが重くなるのでリンクのみ。
今回の件は、ほぼ日本で無名で翻訳もされていない著者の作品だったので、おそらくほとんど本を読んだ人はいなかったはずです。そこで、どう言及すべきか悩んだ人は多かったように思います。私は出版関係者よりも大学関係者の投稿をみていることが多いですが、大学関係者で言及した人は少なかったです。いわゆるヘイト本に対して問題だと考えている人でも
- 読んでいない以上言及しない。
- 読んでいないが、懸念は表明する。(しかし出版するなとまでは言わない)
- 読んでなにがしかの意見を表明する。
に分けると、最後の読んで何かを表明する人は、ほぼ見かけませんでした。出版停止が決まってから、少しずつ出てきたという印象です。基本、言及しない人は多かった。言及しても、出版はして、議論を待てばよいのではという意見が多数派だったような印象です。特に内容については、読まないで何かを言うということは避けるというのは、研究者としてのスタンスとして当然あっただろうことは推察できます。今回、言及しなかった、言及しないと投稿した人達は多かったことも、記録する価値があるかなと思います。
そして、
- 出版するべきでない
と主張する人はかなりいました。上と分けたのは、本の批判までと、出版するなと主張するのは、大きく違うからです。どういう理屈をつけても、この主張は、結果として表現、出版の自由を制限してもよいという主張で、それを実際にせよという運動であることは間違いないと思います。出版すること自体は自費出版でも可能なわけですが、本でなければ届かない人もあるだけでなく、図書館に入り公的に(論文などでも)引用可能なものとされる、一般図書館などでアクセス可能な範囲は広がっていく、というようなことも含め、本でないと広がらない領域というものがあります。これらは出版するということが、表現の自由と密接に関わっている点です。
日本国内の中規模以上の出版社から出版されなければ、書店に置かれる可能性は無く、書評もほぼ出ません。小規模の出版社だと、図書館への寄贈も難しい。翻訳本の初期コストを考えると回収は不可能ですから、出すところは無いでしょう。ただし、今回の騒動で、早めに出せば売れることはほぼ確実なので、どこかが手を挙げる可能性は高いと思います。
https://twitter.com/orionaveugle/status/1732514591564030027
https://twitter.com/kawakami_takuya/status/1732306721463513398
共産党は出版ストップを主張してましたが、どうやら党から怒られたようで、撤回となってました。今回、このように途中や、出版停止後に、トーンダウンした人も多かったと思います。実際にストップするとは考えてなかった人もいたと思います。
https://twitter.com/jcp_seta_youth/status/1732932535922131112
以下が謝罪した対象の投稿のキャプチャのようです。追加情報で組合がウンヌンについては否定されています。
この組合が言ったということの出所は不明ですが、かなり拡散され、米国でも大きな組織が出版が誤りだったと言っていると引用されていました。しかし、このようにコミュニティノートで訂正がついた投稿そのものを削除し、なぜ削除したのか書かなければ、無かったことになってしまい、誤ったことが広がっても、訂正することができないままになってしまう、という越えられないSNSの弱点が露呈した出来事でした。
出版停止を支持していた日本語教育関係者も出版停止を受けて、今回の結果をよかったと投稿していました。
https://twitter.com/rintarock1980/status/1732250554859172158
https://twitter.com/officesatojapan/status/1731962389237776557
その他のリアクション
出版関係者によるXの投稿
主に翻訳書を扱う編集者で、この本の性格、社会的背景も知っているであろう人達による投稿です。これから本を作っていくのはこういう人達なんだなと思わせるタフで超優秀で、素人の私からすると仰ぎ見るような存在の人達。もちろん、意見はさまざま。
https://twitter.com/lilico_i/status/1732906159043203490
https://twitter.com/lilico_i/status/1732989986604220716
https://twitter.com/FUJISAWA0417/status/1731992089716789403
書評家による投稿
https://twitter.com/toyozakishatyou/status/1732611283546198481
「検閲等々は権力のやること。市民のは「抗議」」というような意見に関する投稿
https://twitter.com/y_kurihara/status/1732450081142698424
他に同じようなことはあったという投稿
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/1732625507735527549
海外ではベストセラーだから、という意見
https://twitter.com/sasakitoshinao/status/1732178289257537952
出版前には、こういうこともあったようです。
https://twitter.com/nippon_ukuraina/status/1732692185332777332
この記事のように、内容から離れて問題を扱うことについての批判もありました。
https://twitter.com/brighthelmer/status/1732991689126793274
上への反論もありました。
https://twitter.com/konoy541/status/1733012780385714231
桐野夏生氏の文についてはCiNiiにもデータありました。
講演 大衆的検閲について | CiNii Research https://cir.nii.ac.jp/crid/1520576282617622400
桐野夏生『大衆的検閲について』の要旨に関する投稿
https://twitter.com/sangituyama/status/1732617478734549099
これも中身は読んでいないので、一般論として考えたことだけ書きますが、国家による検閲は、ほとんどの場合、大衆の相互監視によって機能し、強化されるという側面は昔からあり、例えば宗教的な規範などが言論、表現の自由を制限するケースでは、大衆的検閲は大きく機能している側面はあると思います。ただネットがSNS中心となり、可視化された「大衆」が大きな力をもちつつある、ネット発信で自由が制限され、制限が強化されるという現象は確かに現代の問題だと感じます。
出版するということに関する補足
ここからは、翻訳書の出版が出せなくなるということについての、推測も含めた私がわかる範囲での補足です。ほぼ門外漢なので的外れなこともあると思います。
売れない翻訳書という事情
まず、基本的なことですが、本は出版して初めて利益となるので、直前に出版できなくなるというダメージは大きく、今回のような翻訳書がボツになれば、契約内容によっては、小規模の出版社は倒産リスクもあると思います。大手出版社が、内容が薄く誤った主張が多い本を出すべきでは無いという主張もありますが、出版不況の中、出版するリスクが高い本はもうある程度の規模がないとリスクを負って出版するのは基本的に無理です。一発逆転を狙った山師的な人はいるかもしれませんが。
今、本はおそらく大手で書店に平積みの本でも、1万部は遠い目標で、まず1000部クリアしてホッとしてから頑張る、みたいなことだと推察します。そして、ほとんどの本は1000冊までいきません。例えば、学術書の利益確保のラインは1500部とのこと。これは5000円などの価格をつけ、大学などが買ってくれてやっとクリアできる目標で、昨今の予算削減でそれが厳しくなってきた、という話しがありました。出版社が得る利益は定価の5割強というのが通説です。(ちなみに私どものようなアマゾンの自費出版サービス利用だと2~3割です)
特に翻訳物は、様々なライセンス処理など多くのプロセスがあり、利益率も薄い。そして、映画や音楽と同じく、翻訳物はもう長いことまったく売れてません。翻訳本であるだけでビジネスとしては大きなリスクを抱えたスタートラインに立っていると言えます。
そして、翻訳本を宣伝してくれる書店は少ないです。本を宣伝できる場所はSNSにしかないとっていいくらいです。出版関係者はそれがよいこととは思って無くてもバズればいいな、そういう仕掛けをしないとな、と考えている様子が伝わってきます。バズらせるためには、内容をしっかり伝えることから多少は逸脱して、わかりやすい、インパクトがあるプロモーションが必要だとなります。不得手な関係者が新人に丸投げしたり、ネット系の会社に外注することもありそうです。
ただ、出版関係者の中にも、ネットを理解して、しっかりできるタフな若い人達はおり、ちょっと前から翻訳物をSNSでプロモーションして成功する例がここ数年、数件出ていて、これが中小出版社でも、翻訳物を出すための最後の方法となっていたような気がします。
👉 私どものような自費出版では1000部は遠い目標です。
今回の件のダメージ
今回は、翻訳本なので、出版された本が差し止めになったのではなく、実質的に新規の本が出版前に出版できなくなったケースといってもいいと思います。日本語訳はもちろん、ライセンスなど、すべて終わり、出すだけで、おそらくは多大なコストをかけているので、数千部くらいだと利益は出ないような気がします。今回の問題があったプロモーションも当然、著者によって本の内容に沿ったものだと了解済みの可能性が高いと思います。そのへんも含めた契約になるでしょうから。今回の件も、日本の出版社の失点ということにはなっていない様子です。
今回の件で、翻訳物はこういう形で出版できなくなるという大きなリスク要因が生まれたこと。事前のプロモーションが難しくなったこと、など、KADOKAWA だけでなく、出版社では、今後、翻訳物に予算が割かれることは減るだろうと思います。特に、出版前の宣伝が難しくなったことは、上で述べた、昨今、成功例が出ていた、ネットのプロモーションで頑張るという翻訳出版の最後のビジネスモデルの息の根を止めることになるかもしれません。ただ、この騒動もあり、この本に関してだけは、仮に、他の出版社で出版されれば、売れる可能性が出てきたなと思います。
おそらくデジタル方面の知識がそこそこある出版関係者は、デジタルリテラシーが高い人ほど、AIの精度をみて、かなり出版の未来について不安を抱いていると思いますが、今回のように、なぜか出版側に対して厳しい目が向けられてしまうという状況をみて、今後も、業界を去る人は増えるのでは無いかと思います(ここ数年、零細出版社、編集プロなどはすごいペースで消えてます)
今回の騒動の問題点
出版させないというゴール設定
今回、本の内容への抗議のゴールとして出版させないというカードが使われ、実際に効力を発揮したことで、今後、こういう人達は、考え方の違いに関わらず、SNS中心に増えると思います。今回、著者側でも、版権を引き上げる(KADOKAWAから出版社を変える)とか、今後、大学でこの出版社の本を紹介しない、などと投稿している人もいました。出版不況の中、これは大きな影響を持ちます。おそらく言う側も、出版業界が弱っていることを十分に意識し、発言の影響力も意識した上で言うんだと思います。
SNSの炎上程度で、という意見がありましたが、元々売れない、利益が見込めない本の出版なんて、このくらいのことでも、すぐにストップするでしょう。今回のように、すでにかなりコストがかかっていて、出版しないと大赤字になるような本でさえストップになったわけですから。
👉 版権を引き上げるという抗議の方法は、本格的なものでは1997年にありました。「灰谷健次郎さんの新潮社からの全版権引き上げについてのツイートまとめ 」- Togetter https://togetter.com/li/1270305
👉 この騒動時に、別の出版妨害の例として、大学関係者の間でも、このような出版妨害があるという投稿もありました。出版社の対応でなんとかなったということのようです。つまり大学関係者も出版させないという行為のハードルは低い。今回、出版すべきではないという大学関係者は少ないとは言え、一定数いたわけですし、一般の人の比率に較べても低くはなかった。大学関係者はもはや出版、表現の自由の味方ではないのだなという印象です。
移民、ジェンダーなど、現在、欧米で起こっている問題は、日本が迎える問題を先取りしているということもありますから、そういう海外事情に詳しい人ほど、そこで起こっている議論を日本に紹介したいと考えるはずで、今の翻訳出版はそういう熱意に支えられている側面があります。
出版社が事前にこの本の内容を支持しそうな人達に応援してほしいと伝えていたことも、SNS上で報告されています。おそらく事実でしょうけれども、これは、例えばまったく逆のスタンスの本の場合は、本の出版が困難な際の健気な努力として評価される可能性もあるわけで、立場が変われば評価も変わるものという気がします。
日本でリベラルを自称する人達の出版妨害を心配してこういうことが行われ、結果、やはり抗議が起こり、出版できなくなったというのは、なんとも不思議なかんじです。
基本、出版するな、という主張は、理由に関係なく、出版ビジネスにとって、とても大きな脅威で、ダメージしかない動きです。今、マンガや自己啓発本以外の本を出そうというような出版関係者のほとんどは、自分達ががんばって本を出していかないと、という使命感のようなものを背負っていると思いますが。今回の件は、結果、出版しない決断にへっぴり腰だという批判が出たことも含め、そういう人達の心を折ったできごとではないかと思います。
今後の翻訳出版へのダメージも計り知れない。しかし、英語翻訳界隈の人達は、この本が問題山積であることも(批判している人達よりも)知っている。自分なら出版には関わらなかったと考える人もいるはず。しかし、おそらく出版そのものをストップすべきと考える人は少数派であるはずです。ただ、今の状況では、ちょっとでも何か言うと、問題の本やその論調を支持しているかのように思われることも本意ではない。出版関係者も黙るしかない状況なのではと思います。
翻訳、出版業界は、一人負けで、今後、翻訳本を出すことのリスクが増大しただけで終わった騒動でした。
半年前に、まったく逆の立場の人達が、翻訳本に対して出版するなとSNSに投稿、プチ炎上している。
この騒動の半年ほど前に、フェミニズムに関する翻訳書について、日本での出版前に、おそらくは読んでいない人達から、タイトルからの憶測で批判が集まってしまうということがありました。批判は、批判的な人達が収集した情報を元に捏造され、今回とまったく逆の現象が起こり「そんな本出版するな」みたいな投稿が増えました。出版前に編集者や翻訳者によって宣伝、紹介の投稿があり、それをみた人達が騒ぎ出したということでした。幸い出版は予定通り行われましたが、関係者はあれこれと対応に追われていました。ただ、今回のように出版する是非がテーマではなく、出版される前提での嫌悪感の表明くらいまでで留まっていたという印象でした。
『射精責任』を刊行した後に会社に怪文書が届くようになってようやく気がついたのですが、ヘイトをやる人は自分が「差別」してるとは微塵も思っていないのですよね。「正義」を行っているという自認でいるので。だから差別主義者と名指しされると激昂する。そんなこと言われてもヘイトはヘイトだけど…
— ふじさわ📚編集者 (@FUJISAWA0417) December 3, 2023
出版することが問題だという視点での書籍への批判は、考え方の立場を越えて確実に増えています。
https://twitter.com/jigokumimi/status/1663727900301082624
https://twitter.com/Riko_Murai/status/1685915187826860032
「射精責任」が話題 望まない妊娠の原因は男性に? 授業で使う大学も | NHK https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20231115a.html
この炎上は関係者の毅然とした対応と出版するという強い意志、関係者の高いネットリテラシーもあって、結果、問題なく出版され、出版後は特に何も起きませんでした。ただ、こういう対応ができる人達は限られており、場合によっては、出版できなかった可能性もあったと思います。重要なことは、どういう立場の本であれ、こういう危機は訪れることになっているということです。
抗議が出版停止に結びついた今、この種の抗議は当然出版停止を目指すことになるでしょう。順番が逆だったら、この本もそうなっていたと思います。
『オッペンハイマー』
ちょうど販売しないことが決まった翌日に、公開が延期されていた『オッペンハイマー』の公開が決まりました。この作品も海外でみた人達が「表現に不満あり」と投稿したりもあって、日本だけ公開されなかった作品です。クリストファー・ノーランは、間違いなく今のハリウッドを牽引する映画作家ですが、公開されなかったことについて、日本語のSNS上ではほとんど話題にならなかったことに驚きました。日本では海外の作品が公開されないということに対する危機感みたいなものが薄いのかもしれません。
「配給会社が議論と検討を重ねた結果、映画の題材は「日本人にとって非常に重要かつ特別な意味を持つ」と判断し、劇場公開が決定した。」とのこと。当然だと思います。
ノーラン新作『オッペンハイマー』2024年日本公開決定 議論&検討を重ね決断、ビターズ・エンドが配給|シネマトゥデイ https://www.cinematoday.jp/news/N0140374
大手配給のハリウッド映画でさえ、ちょっとした懸念があれば、第一人者の新作を公開しないかもしれないというのは衝撃的でした。これまでもまったく利益が期待できまま公開された映画は、ここ数十年特に、無数にあったからです。炎上要素が加われば、簡単に日本に来なくなるということで、日本が市場としての魅力を失なっていく中で、海外の作品が日本に来なくなるということは確実に増えることを証明した出来事だと思います。
日本は、特に若い世代の間で、海外の文学、映画、音楽の人気がなく、アジアの中でもかなり低いほうだと思います。日本において国際化とは英語ができてビジネスで成功することであり、日本以外の人達と同時代であることを共有することではないんだろうと思います。今後、世界中で公開されているものが日本だけ公開されないということが増えるのかもしれません。今、翻訳本を出そうという人達は、そういうことに対する危機感を持っている人達も多いと思います。
👉 オッペンハイマーは、翌24年の3月に公開されることになりました。
クリストファー・ノーラン監督作「オッペンハイマー」24年に日本公開決定 配給はビターズ・エンド : 映画ニュース – 映画.com https://eiga.com/news/20231207/4/
感想
個人的には、伝わってくる評価や内容をみるかぎり、この本は、支持できそうなことはまったく無いと感じますが、私もこの本を読んでいない者の一人ですから、内容に関しては書きません。
ただ、これは米国や欧州において、カルト的な超少数派の考えではなく、特に米国ではかなり大多数の人達(過半数ではないけれでも、数十パーセントくらい?)が支持するような内容であり、かなり昔から言われていることだという印象です。北米はジェンダー、差別問題など法律的にも昔から対応がなされ先進的という印象を持つ人は多いですが、一方で、アラビア数字は中東っぽいから使うなという親が過半数を占めたりする国です。科学リテラシーが高いとは言い難い。このへんは、海外事情に多少でも関心がある人なら、わかるはずです。つまり、内容が誤っているとしても、日本に住んでいる人が欧米で語られている言説として、知っておく意義は大きいです。海外事情としても重要ですし、日本で広がりつつあるものとしても、存在することを知ることは意義があり、出版されること自体に問題があるとは思えません。
おそらく「問題作」くらいの事前プロモーションで出版されていたら、出版され、それほど売れないままだった可能性が高いと思います。日本は、選挙前のタイミングでもあり、熱烈な支持者が大量に購入する、自社で配布する、みたいなことがあり、結果そこそこの部数になっても、それはどこかに「置かれる本」になっただけで、読まれて広がるわけではないですし、当然、きちんとした批判は英語圏でたくさんあるので、それを紹介するブログ、書評も出て、海外事情紹介で終わった可能性も高かったと思います。今回の件で、どこかが出せば、場合によっては日本でもベストセラーになる可能性が出てきましたし、出版停止に追い込まれた本として祭り上げる人達が出てきそうです。
また、もしかしたら、この本は、大学などで、情報、米国文化、政治などのジャンルで、教科書、参考図書として利用される可能性もあったと思います。問題がある内容の本がベストセラーになったという現象自体は十分に研究、検証するに値するからです。そして、この本に対する批判もたくさん出ており、リテラシーを学ぶサンプルとしても有効だと思います。
しかし、日本で、仮にどこかから出版され、売れたとしても、この騒動自体は数ヶ月で消えますが、おそらく本を出版させない手段としてSNSを利用する手法は残ると思います。それが、今回の件のとてつもない負の遺産だと思います。
愉快犯
もう一点。今回もっともダメだった人達は、被害を受ける当事者とも言えず、著者も知らず、著者の過去の著作も読んでおらず、今回の騒動で、ネットで検索して知った程度の知識で、自分で読まずに出版をするなと主張した人達ではないかと思います。まったく英語が読めないなら、読まないまま懸念を表明するのは仕方が無いところかもしれませんが、読めないこともない人が、原著を読まずに、出版するなと主張する。それが出版、表現の自由を制限することだということがわかっていて、行うというのは、あまりに軽率で、単なる愉快犯といってもよく、ネットで何かを投稿する人として、大きく一線を越えたと思います。
表現、出版の自由を制限するほどの内容であると、ひとたび、表現、出版の自由の制限を持ち出す理屈を許した人は、今後、あらゆる表現を出版停止という選択肢があると考えるでしょうし、これが多くの人にも波及する。そして「ダメな本だが出版停止を求めるほどではない」と踏みとどまることが難しくなるでしょう。今回は出版させるのか?と仲間に批判される可能性がありますから。自分が支持する表現が制限されるリスクをも許容することになりますから、今後は出版停止を巡ってそういう人達と出版すべきかどうかで、争うことにもなります。
仮に炎上とならなくても、検討段階でリスク要因ありと判断され翻訳されない、出版されない本は確実に増えると思います。目に見えない圧力が生まれ、おそらくそれが実態以上に膨らんでいくと思います。
👉 出版しないことが決まると「この程度で出版しないなんてへっぴり腰だ」と出版停止を求めていた人達が言っていたのも、理解できませんでした。私の印象では、本当に出版停止になるとは考えていなかったので、驚いていたのではと感じました。
参考
海外での評価
英語圏での書評は、厳しいものが多いです。専門家による具体的な批判も多いです。それはつまり、出版はするけど、きちんと批判をすることでバランスがとれる社会なんだなと感じさせます。仮に日本で出版されたとして、これほど多くの批判が出るかというと疑問です。例えばWIkipediaでも、英語版は批判はだいたい載ってますが、日本語版はほぼ無いままというページが多いです。
Wikipedia の記述も多いです。
Irreversible Damage – https://en.wikipedia.org/wiki/Irreversible_Damage
A Review of “Irreversible Damage” by Abigail Shrier
https://www.psychologytoday.com/us/blog/checkpoints/202101/review-irreversible-damage-abigail-shrier
Irreversible Damage: The Transgender Craze Seducing Our Daughters by Abigail Shrier | Goodreads
https://www.goodreads.com/book/show/52076947-irreversible-damage
その他、書評はたくさんでてきます。ざっと眺めた感じでは、その多くは否定的なものです。
https://www.google.com/search?q=Irreversible+Damage+book+review
その後の記事など
KADOKAWAジェンダー本の刊行中止「抗議して委縮させるのは卑怯」 武蔵大の千田有紀教授 – 産経ニュース
https://www.sankei.com/article/20231206-3KFCAMLHYJGPZLDG4UDXYPYAHM/
トランスジェンダー本「不必要にセンセーショナル」 心理学者の見方 | 毎日新聞
「サイコロジー・トゥデー」で、この本を批評した心理学者クリストファー・ファーガソン氏へのインタビューがあります。
https://mainichi.jp/articles/20231211/k00/00m/040/284000c
KADOKAWA出版予定だった本の6つの問題。専門家は『あの子もトランスジェンダーになった』は誤情報に溢れていると指摘 | ハフポスト WORLD https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_65792b28e4b0fca7ad228fef
『あの子もトランスジェンダーになった』の出版自体に抗議、または刊行中止を喜ぶ作家・編集者らを記録する – Togetter
https://togetter.com/li/2270929
結局出版されることに
『あの子もトランスジェンダーになった』出るって。タイトルは変更されるだろうが。
「トランス活動家たちが私の日本の出版社を脅迫して『IRREVERSIBLE DAMAGE』の出版をキャンセルした後、複数の出版社間で権利をめぐって入札合戦が繰り広げられた」 https://t.co/uSyNFHhnrd— 栗原裕一郎 (@y_kurihara) February 10, 2024
KADOKAWAのトランスジェンダー翻訳本 刊行中止をどう考える:朝日新聞デジタル https://digital.asahi.com/articles/ASS3X75WPS3XUTIL006.html
「トランスジェンダーになりたい少女たち」 発行元や複数の書店に放火の脅迫、被害届提出 – 産経ニュース https://www.sankei.com/article/20240330-MHOJKNM325BGFBGT4JVPMTOOQI/
出版社は産経新聞出版になった模様。この種の論争が好きなところに決まったなという印象です。
発行中止のトランスジェンダー本刊行へ 「不当な圧力に屈しない」産経新聞出版 – 産経ニュース https://www.sankei.com/article/20240305-KKZ57HKC2JGM7FNCO6BTPPCNHQ/?s=09
書評の投稿がありました。
書評『トランスジェンダーになりたい少女たち』|小山(狂)
ただ、差別的な言説で金儲けをするな、と出版停止運動が起こったのに、書評は1000円の課金コンテンツとして公開するというのは、モヤモヤします。読んでませんし、リンクは入れず、タイトルまでにします。
- おそらく出版業界の人もそう考えているだけでなく目にも入っていないと思います[↩]