当時「外国人と牛や豚と同列にするな」と炎上して撤回しましたが、この発言の問題はそこではなく「(高度な日本語は不要だから)最低限の日本語はできるようにする」と語った部分だと書きました。でも、今もあまり理解されてないような気がします。
— webjapanese.com (@webjapanese) January 18, 2024
これ、大事なことは「学習のゴールを決める権利は学習者にしかない」ということで、雇用者や国が決めることでは無い。百歩譲って教える専門家に出来ることがあるとすれば、「そのゴールの達成のためには、こういうことが必要だと思う」と提案することまでで、間違っても教える側が「あなた(のゴール、在留資格、学力)ならコレだけで十分」などと勝手に学習者の天井を設定してはいけないということだと思います。
国は来日時や在留資格の延長でも、日本語能力でハードルを設けることは人手の確保に大きな障害となると考えており、昨今の有識者会議を見ていると、財界でもそう考える人は多い。実際に雇用する中小零細企業側は、日本語が下手でも困るけれども事業者に負担せよと言われるのはもっと困る。新しい法律(日本語教育振興基本法)では受け入れ企業にも負担責任があるということになったことを知っている。昨今の有識者会議のトーンを見ていても、本音でいえば、5年くらいで帰るのがほとんどなんだから日本語が不要なら学習機会を設けたり、ハードルを課したくないと考えていると思います。
結果「牛や豚がしゃべるわけではない(からホドホドでいい)」というコンセンサスが出来上がる。この人達は、あくまでも制度上はブルーカラーならN4で十分くらいに留めておきたい。無理に上達しろとも思っていない。下手に上達してSNSで日本語で窮状を訴えたり、労基署に駆け込んだりされても困るという事情もありそうです。よって日本語教育関係者のハードル低めの「~で十分」という発言は常に歓迎されます。ブルーカラーならA2で十分と言ってほしいし、すでに留学でも専門学校や大学への進学でもN3で十分みたいなことになっていて、日本語教育関係者にそれを追認してほしい。そのことを察知してわざわざそういうことを言う人もいる。
つまり、日本の社会は日本に来る外国人に対して、日本語を学習しろと言う反面、日本語の学習はこのへんまででいいという天井を設定していて、日本語教育関係者は、このどちらにも加担してはいけないのではと思います。
こういう戦略的な名付けは好きではないですが、例えば「日本語学習のガラスの天井問題」とでも名付ければ、少しは考えてくれるようになるでしょうか?