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【memo】教科書が教えない日本語

「教科書が教えない」という物言いは評判が悪い。いやちゃんと教えているよ、あなたが忘れているだけだ、というような反論が用意されており、それはほとんどの場合、正しいと思いますが、言語教育では、ちょっと事情が違う。

容姿の描写はOKで、評価はNGという区分けも結構危ういものです。ポジティブなものならいいというわけではなく、ネットやテレビに溢れている、顔が小さい、目が大きい、肌がきれい、(年齢のわりに)若い!、スタイルがいい、みたいな「ポジティブな」評価は、そのまま、そうではないことに対するネガティブな評価でもありますし、清潔感がある、爽やか、好印象、素敵、みたいな言葉にも密かに容姿への評価が潜んでいる、ということもあります。

語学教育の世界では容姿の文化差も重視されます。肌の色、身体のパーツの大きさ、長さの評価は国や文化によって全然違う。何を相手に伝えて良いかの基準も違う。当然、良いとされていることは相手に伝えることは悪いことではないと考える人は多い傾向がありますが、その良い悪いの概念自体が違うことがあるわけです。容姿の話そのものがタブーであるという「ルール」が正しいのかもわからない。イギリスではアメリカ人を揶揄して「歯の矯正をしないと頭がオカシクなる連中」と呼んだりしますし。

そもそも、人は基本、容姿の話が好きなんだと考えたほうがいいです。容姿の話、語彙、は、多分、日本語に限らず、リアルな言語表現のド真ん中で、ネット上は容姿の話で溢れています。もし、そうでないように見えるのなら、自分のタイムラインではなく、検索して違うタイムラインをみたほうがいいです。

語学の教科書は元々保守的なものですが、近年、コンプラ重視(というより炎上予防?)で、ちょっとでもリスクがあるなら扱わないという選択をするようになってきてます。「教科書が教えない日本語」は増えていることを意識したほうがいいです。語学教育の世界はリアルな言語表現からどんどん遠ざかっているとも言えます。しかし、今の言語教育は、リアルで実際に使われているものを教えるべきだということになっている。ここにも大きな矛盾があります。

おそらく、かつてのように性や流行語などタブーな言語表現としてグレーゾーンの言葉を扱うだけでは間に合わなくなってきている。多分、どこかで補わないとまずいということになりそうです。

宣伝のために書いた記事ではありませんが、現在、作っている日本語学習の本は、そのへんも意識して作っています。「教科書が教えない日本語」は、流行語やスラング、PC(Political correctness)的なものだけでなく、いろいろと広がり始めている。改めてじっくり考えるべきテーマだと考えています。