【memo】日本語教育は、誰の意向に従うべきか?

なんとなく気になった投稿がありました。

解釈がわかれる投稿

日本語教育関連の投稿をチェックする時間は無くなってしまったのですが、数十単位でイイネがついた日本語教育関連の投稿は目に入るようにしています1。最初は、「会社の人がウチのが発音がダメなのが業務の障害になってるからなんとかしてくれ」なんて依頼が来るんだな、酷いけど、外国人と何かをすることに慣れてないならこういことはあるかもしれない。結果、教室側の判断で会社の切り離してやることになったんならよかったのでは」と、思ってました。

ただ、後段になるにつれ、投稿の意図がなんとなく違うような気がしてきて、さらに読み返すうちにわからなくなりました。結局、連れてきた会社の人と、受け入れの教室サイドのどちらが問題と言っているのか分からず、当然、なぜイイネがされているのかも今もって理解できないままです。

最初の投稿の後段で「ボランティアに任せきりにした代償は大きい」となり、次の投稿に続くので、基本的には専門家ではない素人判断を批判していると読めます。しかし、文中の「ボランティア(の日本語教師)」は、会社にも、教室にもいる可能性がありますから、ハッキリしません。つまり、この投稿の前段は「会社側の発音の問題だという素人判断が、教室の専門家によって訂正された話」にも読めるし「会社の切実な問題を聞き入れなかった教室の誤った素人判断の話」にも読めます。

後段で「地域の教室でも専門知識は必要」とあるので、どうやら教室側の判断を批判している可能性が高いような気もします。しかし、明確ではありません。読み手の考え方、思い込みで読み方が180度変わる可能性があると思います。

投稿者がどうすべきだったと考えているのかが明確に書かれていないことも、この投稿を曖昧にしてると感じます。

 

まず、私は、実際に起きたことについて、ネットで誰かが投稿し、その是非をネットで問うようなことは、あまり意味がないと考えています。本当の事情はわからないし、投稿者の切り取りです。欠席裁判でもありますから。よって、上の件の「判断の」是非は書きません。判断する材料もないですし。

ただ、「会社の切実な問題を聞き入れなかった教室の誤った素人判断の話」であった可能性があるとしたら、多くのイイネがそこことに対する賛同だとしたら、問題なのではと思いました。会社と学習者の意向は一致しているし、ここは求められているのはコミュニケーションであって言語知識の多寡の問題ではない。まずそこを解決するのが「社会的存在でもある学習者」の立場を考えたやり方だ、みたいなことです。今の時代の模範解答っぽくも響きます。しかし、私は、この投稿だけでそう判断するのは、あまりにマニュアル的で誤りだと思います。以下に、一般論として、同じことが起きたら、どういうことが正解なのかを考えてみました。

 

教室側の対応に問題があったか?

日本語教育の役割は、雇用者の意向よりも、学習者にとって何が必要かを優先するべきで、これはCEFRの「あくまで学習者個人発信であるべき」という理念とも一致するはずです。ほぼCEFRと同じ日本語教育の参照枠でも同じでしょう。しかし、理念などと照らし合わせて考えるまでもなく、この「連れてこられた」学習者は、一旦、周囲と切り離して考える必要があると思います。つまり、日本語教育の領分として対応する、みたいなことです。

病院に外国人の雇用者が「この人は左手が使えないので困っている、直してくれ」と言ってきた。会社は医務室で手当てぐらいはしたかもしれないが、専門家である医者に行くことにした。本人も直したいと言っていたら医者はどうするか?と同じことだと思います。

医者は「一旦」(「一旦」ですよ。会社の人の見立ても重要は判断要素です。仕事が~ということも一旦横に置くだけです)、会社の意向とは切り離して、患者と話して、左手の状況を診る。原因は怪我ではなく脳など別の要因かもしれない。あるいは外的要因なら職場での無理な作業や疲労が原因かもしれない。とみていく、というのが初期対応としては正道ではないかなと思います。

つまり会社の意向、見解は一旦切り離して、患者(学習者)個人の問題として診ることが初期対応としては大事だと思います。そして、必要な手当てを考える。もちろん、怪我のことと外的要因を切り分けて解決するのは、専門家しかできないとは言えないけれども、少なくとも専門家として勉強し、経験をした人のほうが正確なことがわかる。社会の中に日本語でここを切り分けることができる人、というのが(その権限が付与されているということも含め)役割として与えられていることが必要という気がします。会社の人は、こちらを専門家だと考えて相談に来ているので、悪く言えば、それを利用して、こちらできちんと判断させてもらう。毅然として、患者(学習者)ファーストという視点でのソリューションを提案する。

つまり、今回のことで言えば、教室関係者の「診断」の是非はわかりませんが、初期対応としては、まず、会社の人の意向は横において、学習者個人と切り離すことは重要で、正解だったのではと思います。この場合で言えば、ひとまず、雇用者の意向にNOとした教室側の判断は称賛されるべきだと思います。< もちろん「言葉を覚えるのが先」とした判断が正しいのかはわかりません。この学習者のレベルがそこそこ高く、発音の問題を改善すれば、職場でもスムーズに行くというケースも考えられます。しかし、日本語学習の機会が法的に保証されていない日本の就労制度では、「その前に、ちゃんと基本的なことを学習しないとどうにもならない」ということはよくあるだろうと思います。

 

専門家に権限が付与されているということ

日本語教師が医者と同じ専門家であるかどうか、ということより、日本語教育は医療と同じインフラ的な役割を担っているという意味で専門家としての仕事はあるんじゃないか?という話です。会社は医者の診断なら従うことが多いと思います。職場環境に問題があると言われたら原則、改善するしかない。カルテが残るので法的な問題も頭に浮かぶでしょう。

地域の言語教育に関しては、海外においては、必ず資格を持った教師によって行われることで質の保証とすることになっています。これは有資格者であることで質的保証だけでなく、上のような専門家として適切な方法を伝え、それが尊重されるという社会的な信用を持っているということが重要です。日本語はまったくそうなってません。今後もそうなる可能性はかなり低いと思います。

日本語教育振興法でいうと、日本語教育の機会を作る義務が国、地方自治体、そして企業にあるとされていますから、国が認定した日本語教師の診断に従わないことはこれに反する行為であると考えることもできます。こういうことからも、地域の日本語教育機関に認定日本語教師がいる意味があることになります。認定日本語教師の正式な判断としてカルテ的なものの作成が義務化され、記録が残る、みたいなことがあれば、もっといいと思います。認定日本語教師が判断したにも関わらず必要な日本語教育の機会を作らなかったとして、企業、地方自治体、国の責任、違法性が問われるみたいなイメージです。

【参考】海外における在住外国人の言語学習制度
http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/pdf_272/04_sp.pdf

ここに海外の言語政策の資料がありますが、資格を持った教師を配置することで権利としての言語学習において質的保証をするというのが国際的な了解事項になっていることがわかります。人権マターなんですね。

 

本当に学習者の意向か?

仮に学習者が職場への適応を重視したとしても、簡単に、これをそのまま学習者の意向と受け取るかは状況しだいなはずです。職場への適応はさまざまな圧力の可能性がありますから。例えば「今の日本語能力のままだとクビだ」と言われてたら?ということもあります。ブラックな職場ほど、職場への適応が強制され、働く人も「適応しなければ」と考えているという心理を持ちやすいということが言われています。雇用者と学習者の間には明らかに力関係の強弱がありますから。特に、今の日本の就労の在留資格では、そういう職場である可能性がかなり高いことは、ご存じの通りです。

ただ、この投稿を、会社の意向と雇用者の意向が一致しているのだから、そこに対応するのが、今の日本語教育の考え方だ。言語だけでなく、社会の中の存在として考えるなら、社会への適応を考えた対応をすべきだ、と受け取る人はいるかもしれないと感じました。学習者は言語の学習者ではなく社会的存在として社会の中で生きていく術として言語を学んでいるのだ、という理屈があります。しかし、この会社が社会の中の健全な成員であるかどうかわからない。仮に連れてきた担当者が善い人であっても、その背景にある会社がどうなのかを考え、きちんと疑うべきだと思います。

雇用者など学習者の周囲の人達のニーズをそのまま受け取るのは疑問です。CEFR方面でよく使われる「学習者を社会的存在だと認識する」というコンセプトを、社会への適応を強いることとして使うのはマズいわけです。そして会社=社会でもないということです。

このケースの場合、「会社の人が連れてきた」わけで、学習者の意志で来たわけではないことも気になります。学習者が日本語学習で改善したいと思っているなら、自分で教室に来るでしょう。少なくともそうするような制度設計が必要です。地域の日本語教室が、個人でフラリと来てもらえるような場所であったらいいと思います。この学習者にとって何が最適なのかは、常に、学習者個人と話して、学習者の意向ベースで決めるべきというのが基本です。でも、とりあえず職場の問題が解決すればいいと考えているケースもある。となると難しいですね。でも、やはりそれだけじゃない提案もしたほうがいいんだろうと思います。今、これをやっておくと、こういう可能性が広がりますよ、みたいな。

 

「診断」の正解は?

これは、今回の投稿だけではわかりません。

しかし、日本のように、就労系の在留資格ルートでの日本語学習の機会が保証されていない社会環境では十分な基本の学習ができないまま、職場での最低限の日本語だけしっかりやってくれとなっている可能性もあります。その場合、仕事がスムーズに行くことよりも、学習者がきちんと自己表現するには、仕事のやり取りに特化した「発音」のような区別の問題点の改善よりも、基本的な知識と理解、語彙が先だという判断をすることは大いにありえると思います。言うまでもなく、就労系の在留資格の学習者は、職場でスムーズにやれるためだけに言葉を学習するわけではありませんし。

つまり、どういう判断が正しいのかは、この投稿だけだと分からない。その学習者と接した教師しかわからない。今回の教室の判断が正しいのかもわからない。しかも、上記のように、どういう会社なのか、職場環境なのか、学習者個人の学習履歴はどうかなど、きちんと踏み込んで学習者に尋ね、しっかり原因を特定し、個別の件だけでなく、全体としてこの学習者にとって最善の方法は何かを考えようとした人しか正解に近づけないと思います。

この投稿について以下のリプライは重要です。

会社側に問題があるかもしれないという視点です。これも、今の日本の受け入れ制度、環境では、おおいにありえると思います。つまり会社側にも「ある種の日本語教育」が必要ということだと思います。例えば発音の問題の改善には作業工程で言葉のやり取りが無くても済むようにするなどの、語学以外の解決方法もありえます。こういう提案が日本語教育のジャンルなのかは、わかりません。でも、そこまでコミットできるノウハウの蓄積は可能という気もします。

 


 

元の投稿がどういう意図だったのかは、わからないので、とりあえず、「こういうことなら、こうではないか」ということを書きました。元の投稿も、イイネをした人達も、教室の人達の対応はひとまず正解だったという解釈だったのなら、あまり意味がない記事かもしれませんが、参考になれば幸いです。

 


 

【関連】

ボランティアに求めること

数日後、こういう投稿をみました。

私はボランティアで日本語を教えたことはありません。エクスチェンジレッスン的なこともしないことにしてました。これまで関東と地方のいくつかの県の地域の教室の関係者と話しを伺ったことや、デジタル活用についてご提案をしたことはあります。「無理」というお返事でした。もうワードで書いて印刷するところまでで精一杯なので無理、というお返事でした。ほぼ知らないといったほうがいいと思いますので、以下は、雑感です。

この投稿によると「ボランティア養成講座では、約15回のうち日本語についての講座は1回だけで、ほとんどが多文化共生に関する講座だった。」とのこと。ボランティア講座は地方の公的な組織などで30時間くらいのものが行われていることが多く、民間のものもあります。これがどれなのかはわかりませんが、今、従来の文型シラバスを教える前提の講座だったものは、こういうものに切り替わっているのかなと思いました。

あと、多文化共生の14コマって何をやるんでしょうね。多文化共生を教える資格とは何か?ということも気になります。それはともかく、ボランティアだとしても、1:14は、変な比率だという気がします。全体の半分くらいは日本語学習のコンシェルジュ的な役割を意識して「学習する日本語とはどういうものか」「どういうリソースがあるか」「ICT活用」でいいのでは? 教えないとしても、結構知っておくべきことはあると思います。認定日本語教師と共に授業をすることも想定されているでしょうし。つまり即席日本語教師を作るのではない道を目指すのだという方針転換だとしても、やはり日本語学習は主たる役割なので、正解はもっと他にあるのではという気もします。

ボランティアと教師と明確に分けるという方針はそれはそれでいいと思います。ちゃんと棲み分けつつ連携してやる方法が定まっているのなら、ですが。例えば、認定日本語教育機関として認定を受けるなら登録日本語教師が規模に応じた比率で配置されるみたいなことがあることが大前提になると思います。しかし、おそらく、ちゃんとしたものは無いはずで、かなり不安です。

ボランティアに求められることは何かは、状況、環境で変わります。そこに来る人が何を求めているかで決めるのが最もフェアなやり方ではないかという気がします。調査すべきでしょう。それを元にその場所がきちんと議論をして決める。場所が必要ならスタッフとして働く人でいいし、日本語学習が必要なら教える人が必要。教える側が勝手に考えた「こうあるべき」で決めるのは変です。

地域の日本語教室をどうするのか、国の方針も日本語教育関係者の方針も見えてきません。私は、小中学校ベースで資格を持った日本語教師を配置してサポートネットワークを作るのがいいのではと、2015年に書きました。今の制度のまま改善を目指すならバウチャー制度の導入なども候補のひとつだと思います。

以下は、2015年に書いた提案のアップデート版です。

日本語教育の政策について(「私どものスタンス」)

  1. 「高度な設定」でフィルタリングが可能です。[]