語学教育は、教えたいことよりも、学習者が教わりたいことを優先すべきだ、という理屈には説得力があります。そのひとつのバリエーションとして「学習者が言いたいことを学びたい時に制限を設けてはいけない」という考え方があるとします。
ひとつの反論としては「レベルに応じて制約はある。やはり初級から中級では、本当に言いたいことを緻密に表現するのは難しいので、ひとまず語や表現を『あてがう』しかないことはあるだろう」というものが思いつきます。これも説得力があるところです。
しかし、今の語学教育では、可能な限り必要度が高く、自分の考えに近いことから学ぶほうがむしろ効果的なのだ、という考え方もあり、正解はどこにあるのかが見えにくいということがありそうです。結局、現場でのさじ加減にしか正解はないのかもしれませんが、わりとそういうことも白黒つけたいという人はいるものです。
そういう一般的な論点を一旦横に置いて、じゃあ「学習者が言いたいこと」とは何だろうか?教師はそれを知ってるかのように語られるが、本当だろうか?みたいなことををテーマに、パッと思いつくことをズラズラと書いてみます… 深く掘り下げるというものではなく、思いついたことをただ、書くだけなので、まとまりも結論もない、メモに過ぎません。 この記事と、パート2で終わりです。
頻度
「学習者がいいたいこと」が示すものは、大きく分けると、必要度が高いものという方向と、学習者の思想信条や感情の表現に近づける、みたいな方向があり、両者はやや違うように思います。まず必要度のほうを考えてみます。
日本語の教材を作ったり、単語集を作る際にまずやはり考えるのは、使う頻度が多く便利な語は何かだとは思います。頻度が高いことは必要度が高いことでもあり、それは「学習者の言いたいこと」でもある可能性が高いとひとまず考えることができます。自宅に来る新聞の勧誘をちゃんと断るのは言葉以外のいろんなものが必要ですが、ひとまず言葉は重要です。
ただ、頻度はそれほどではなくても重要な語、例えば「火」とかがありますね。教える側は、これをどうするかという問題があります。「水」は日常生活でもそこそこ使いますが「火」は料理をしたり、タバコを吸う人には必須かもしれませんが、使わない人は全然使わない。日本に来た留学生はあまり本格的な料理をしないし、タバコを吸う人はかなり減ってきてます。でも、言語を学ぶ側からすると、火のような基本的な語を知らないということは、ムズムズするという人もいそうです。もちろん、使わないんだから不要と考えるひともいる。
こうなると語を「使う」とはどういうことか?も考えることになります。誰かに向かって言うことは第一だとしても、人に向けて言わないけど、頭の中で知っておくことで、語彙の体系みたいなものが作りやすいということがあります。「火」があり、「弱火」や「強火」があり、みたいなことです。犬や猫は日常生活で必須ですが「ペット」の必要度はやや下がる、「動物」はもっと下がるようだけど、「動物は苦手です」と言いたいこともある。
また、人に向けて言わないけど、自分の感情や意見を整理したり心の中で表現する語彙というものも確実にあります。「バカ」なんかは代表的な語かもしれません。留学していろんな国の人達に囲まれるという体験を初めてするということも多いでしょうから、「あの国は遅れている」みたいなことは言わないとしても、言いたくなるはずです。いつか言うために知りたいと思うかもしれません。
「リアル」は正義か?
この種の議論でよく見かけるのは「リアルな」とか「本当に必要」だとか「本当に言いたいこと」です。新しい古いという判断基準もありますし、世代によって違うということもある。若い人が「本当に使うのは」チャリだけど、やっぱり「自転車」を先に覚えたほうが汎用性が高い。なぜならすべての世代で通じる可能性がたかいから、みたいなこともあります。
教材で扱わないけど使う頻度も高く重要みたいな語はたくさんあります。「生理」なんて語は、語彙集を作ろうとした人は必ず考えるその典型的な語でしょうか。生理になる、が重い、来る、なる、なった、といろいろあり、生理用品の用語などもある。でもほとんどの教科書には出てこないし、サバイバル系の単語リストにちょっと出てくるくらいです。あるいは、スラング多めのサバイバル系の教材や「日本の本音」的な本とか。
「嘘」とか「バカ」も超頻度が高く、日常的に飛び交っている語だと思いますけど、教材では扱われない。
リスキーだとか、学習者の国や宗教によってはタブー感があるとか、教材で扱わない理由は様々だけども、いろんなジャンルでたくさんあります。
「本当に使われている」と「使いたい」も多分、違う。
本当に使う語を使いたいか、と言われると、ちょっと違うということもありそうです。アメリカに短期留学して「Fuckingなんとか」みたいな英語を覚えてくるという話がありますが、日本に来て「バカ」「アホ」が頻繁に使われるのを知っても、学習する側は、要注意だなくらいは想像がつくので、慎重になるだろうと思います。
モラルによる検閲
この辺から、学習者の感情や思想信条のほうに移っていきます。
学校というところは、明らかに居酒屋などよりは、高いモラルが要求される場所ですから、ある種の本音は言えないことになっている。しかし、多国籍のクラスでは、他国の政治体制などを揶揄したり、発展しているとか、遅れているとかもあります。これは、自動改札があるとかないとか、みたいなことだけでなく、男女平等の考え方が遅れているみたいなことも、議論では避けて通れないところかもしれない。来日したての学生にそういう議論をさせるのは、かなりリスキーというのも理解できます。他国でいろんな国や文化がある人に向けてどう語るべきか?は日本も弱いところですが、海外の若者も、それほど得意ではない可能性があります。
もうちょっと対象を小さくすると、体臭がキツい、なども言いたくなることかもしれません。これらは、居酒屋談義には出てくることは想像できても教室では出てきにくい。でも、学習者が本当に言いたいことであることは間違いないわけです。「本当に言いたいこと」はいろんな種類があると思いますが、その中でも「本音的な方向」では、核心に近づけば近づくほど、リスキーになるということもあるわけです。
語学の教室において、本当に言いたいことがモラルに反することだった場合、どうすべきなのかは、難しいところです。語学の学習であるから、という線引きもありそうですし、もうちょっと踏み込むとしても、どういうモラルを基準に判断すべきか、あるいは、日本での授業である場合、日本での授業だからということを何かの判断基準にしていいものか?という問題もありそうです。
いろんなバイアスと隠すべき本音
私の国の言葉や文化こそが最高なものであり、日本語は当然、劣った言語である。文化もそう。しかし必要だから学んでいる。という人は、実は結構いたりします。言語学的な正解とは関係なく、そう思うことはその人の信条であるという点では真実なので尊重する必要があるのでは、という気がします。
宗教となると、そういう色が濃くなります。聖典が書かれた言語こそが最も美しく正しい言語だ、みたいなことを信じるというのは、ある種、自然なこととも言えます。日本で作られた宗教組織が海外で布教する場合は「日本が本場」である、というような伝え方をすることが多いと聞きます。仏教やキリスト教であっても、教祖が日本人ならそうなる傾向はますます強まる。
語学学習の場面では、こういうことはあまり語られないのではと思います。ニュートラルであることが求められる要素が強いからです。でも、学習者が本当に言いたいことは言えないわけです。
日本に来て、自分の国より考え方が遅れているという指摘は、したくなるものだし、上手にやることを覚えれば言えそうですし、教師というのはそういう意見を歓迎しそうなタイプが多いように思います。逆に日本のほうが進歩的かもしれないけれど、自分は自分の国や宗教が持つ一般的には保守的と呼ばれそうな価値観のほうを大事と思う、みたいなことは、なかなか言いにくいだろうと思います。そういう「空気」が学校というところにはあります。
多国籍な教室で、すべての国の人と仲良くなるべき、ということが前提が過剰に強かったりすると、言いたい表現や語彙は学校では学べない、ということになるだろうと思います。しかし、これは語学に関して言えば、学校や教科書で、あらゆる語や表現を教えるつもりは最初から無いよ、という考えがあります。しかし、一方で、政治的な志向が強い教育現場では、政治、ジェンダーなど、あるべき姿が確固としてある、というケースもありそうです。学習者が言いたいことを正確に言えたからゴールではなく、考え方自体を批判されることがあるわけです。そういう空気が濃ければ、教室では、「言いたいこと」は言われなくなるだろうことは想像できます。
期待される模範解答?
日本に留学するような人は、比較的、日本の文化や社会、慣習に対して肯定的な印象を持っている人が多いといえます。もちろん、日本について手厳しい批判をするような人は昔からいて、結構、歓迎される空気もあります。例えば今の日本の政治体制や文化に対して批判的な考えを持っている人は結構喜んだりします。
ただ、最近はあまりネガティブな意見は歓迎されない風潮が強く、明らかに日本に来た外国人には日本を褒めることが期待されています。ブログやSNS、YouTubeでも「外国人が褒めた」というコンテンツは人気です。当然、日本に住む外国人もこのことを強く意識するようになっていると思います。
中には過剰に日本を崇拝するみたいな物言いもあります。欧州では移民が少ない政策は素晴らしいなどと変に賞賛されることもあります。また、少なくとも教師の前やテストの解答では教える側が求めることを言うのが正解だという「合理性」みたいなものが、学習者にはあります。
仮に学習者が「列に並ぶ日本人は素晴らしいです」と言ったら教師はどう答えるタイプの人か? みたいなことに敏感です。「そう教育は大事だね」と受ける教師か、「いや、列に並ぶのは見えない圧力があるからで、集団から逸脱する自由がないのだ」と言う教師か、によってそのクラスが解答するタイプのベクトルは変わってくるのではないかと思います。そして、「回答によって議論を誘発するのが正解なので、学習者の回答を認めつつも、違う考え方を提示するのが正解だ」という教師の模範解答があったとしても、複数の回答ではどうするのか?という課題があり、教師が常にニュートラルな存在として振る舞えるか?という課題もあります。
仮に日本語のクラスの場合、日常生活のマナーについての議論で、学習者が「忖度して」日本の列に並ぶ習慣を褒めたとして、その問題点を提示することは難しくはないですが、ほとんどの場合、なんだかんだ言っても、日本に住んでいる人は窮屈さよりもマナーがいいことで得られる心地よさを選んでおり、ほぼすべての教師はそのことをポジティブに捉えています。無理が出てくるわけです。
この列に並ぶ例の他にも、様々な難しいパターンが思い浮かびます。
仮に教師が、自分にとって喜ばしい意見の表明があった時にだけ賞賛するみたいなことだと、ますます本当に自分が言いたいことは抑圧されていくわけです。
【参考】
「ルーツ」としてのアラビア語の狭間で ~アラブ首長国連邦における大学生のアイデンティティの行方~
https://ycc.repo.nii.ac.jp/record/2227/files/kimura.pdf
在日ウクライナ人における言語,宗教とナショナル・アイデンティティ | CiNii Research
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050287297254097152
モスク教室における在日パキスタン人児童のコードスイッチング
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jajls/17/1/17_KJ00009727986/_pdf/-char/ja