日本語の「多文化共生」は、70年代以降に世界にボンヤリとある Multiculturalism の日本語訳みたいな語で、「複文化」を標榜するCEFRの前段階みたいな時代の「それぞれ違うけど尊重しましょう」ぐらいのコンセプトではないかと思います。同化主義的なものへの批判が多少含まれているけども明確にあるわけではない。日本でも「外国人と仲良くしましょう」くらいの意味で一般の人に認識されていて、ずっと変わらない。
その後、複文化だとか統合みたいなコンセプトが出てきましたけども、それぞれの語は、Multiculturalismへのわりと明確な批判を元に出てきたもので、違うものとして共存は難しい。何か目指すべき形があるというものだと思いますが、そこは一般の人には明確には意識されていない。移民に対し、もう少し厳格な管理をすべき、くらいの折衷案みたいな理解しかないように思います。
【memo】25年の参院選で書きましたが、多文化共生が日本で使われたのは1997年(平成9年)。2002年(平成14年)ごろから増え始め、国が正式に定義して使い始めたのは2006年(平成18年)ということになってました。以下、抜粋です。
政治の世界の「多文化共生」は1997年から

国会で初めて使われたのは1997年(平成9年)。2002年(平成14年)ごろから増え始め、国が正式に定義して使い始めたのは2006年(平成18年)。意外と早くから国でも使うようになっている。
決めたのはここ
多文化共生の推進に関する研究会(2006) https://soumu.go.jp/kokusai/pdf/sonota_b5.pdf

国会で初めて多文化共生という語が出たのは平成9年(1997年)。社会党、民主党の質問に出てくることがほとんど。平成14年ごろから公明党の質問にも出てくるようになり、増え始めます。
国が使うようになってます。ChatGPTによると、最初に使ったのは総務省で、2006年:「地域における多文化共生推進プラン」で出てくるようになり、そこからは政府系の文書でも政策の説明として使われるようになってます。
文科省、厚労省、法務省などで、多文化共生という語を使うようになったのはいつからですか?
https://chatgpt.com/share/6886952f-fc4c-8013-a5c8-d468760d8938
2006年:地域における多文化共生推進プラン(2006)
総務省|地域の国際化の推進|多文化共生の推進 https://www.soumu.go.jp/menu_seisaku/chiho/02gyosei05_03000060.html
その後、定義も含め、細かく改訂されています。
「地域における多文化共生推進プラン」の改訂について
https://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kyoiku/taikai/r02/pdf/92746701_03.pdf
多文化共生の定義は以下のとおり。
「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと」
以下の会議で決まった模様。
多文化共生の推進に関する研究会(2006) https://www.soumu.go.jp/kokusai/pdf/sonota_b5.pdf
- 座 長 山脇 啓 造 明治大学商学部教授
- 構成員
- アンジェロ イシ 武蔵大学社会学部専任講師
- 大 野 慎 一 (財)自治体国際化協会専務理事
- 岡崎 久美代 四日市市市民文化部参事兼国際課長
- 柏崎 千佳子 慶應義塾大学経済学部助教授
- 孔 怡 FM COCOLO プログラムスタッフDJ
- 小山 紳一郎 (財)神奈川県国際交流協会企画情報課長
- 齋 藤 誠 愛川町総務部企画政策課長
- 関 根 千 佳 (株)ユーディット代表取締役
- 田 村 太 郎 特定非営利活動法人多文化共生センター理事
- 山 口 和 美 群馬県新政策課多文化共生支援室長
- 山 崎 一 樹 総務省自治行政局国際室長
多文化共生という語の使われ方
多文化共生(Multicultural Coexistence)は、明らかに古い用語です。1970〜80年代の欧州にあった多言語主義(multilingualism)は社会に複数の言語が存在することを許容しようという傾向がありますが、90年代以降は、複言語主義(plurilingualism)によって個人が複数の言語を横断的に使うことを目指すというものに転換していった、「多文化」というワード時代が使われなくなった。そういう変化はCEFRの成立とともにあった、ということは日本語教育では学ぶはずです。
独のメルケルが2010年の演説での「多文化主義というアプローチは、完全に失敗しました(Multikulti ist gescheitert, absolut gescheitert.英語だとMulticulturalism has failed, utterly failed.失敗した。完全に失敗した、と二度強調している)」というのは、「移民がドイツ語を覚えず、社会に統合されず、並行社会(Parallelgesellschaft)を形成している」「ドイツの価値観や法秩序に適応しようとしない人々がいる」「共生ではなく、むしろ断絶や分断を招いた」というもので、文化的相対主義や非干渉の立場が、統合を妨げることになったという認識が背景にあります。移民によるテロの影響も大きかった。
この後、欧州は多文化主義から、ある種のアップデートを経て、統合主義(Integrationism)に向かったということになっています。
多文化主義と多文化共生と複文化
多文化共生は、いわば日本製の語で、英語に訳せというと文脈によってバラバラになります。 Multiculturalism Social inclusion Integration Intercultural dialogue…
CEFRでは 「複言語」 ― plurilingualism(プルリリンガリズム) 「複文化」 ― pluriculturalism(プルリカルチュラリズム) が使われてますが、特に後者は多文化主義(multiculturalism)」のアップデート版なのだというニュアンスが強いみたいなことは、日本語教育方面のいろんな本にも出てきます。素直に解釈すれば、どちらかといえば多文化共生は、多文化主義(multiculturalism)に近く、最初に書いたように、1980年代あたりまでの欧米の、異なる文化の尊重みたいなコンセプトと言えそうです。
複文化主義に込められた、多文化主義への批判は、文化の固定化、ステレオタイプ化、尊重という建て前で交わらず、衝突を生む可能性みたいなことがあったとされてます。
メルケル前ドイツ首相の「多文化共生(Multikulturalismus)は失敗した」のMultikulturalismus(multiculturalism)というのは、多文化主義(multiculturalism)であって、複文化というコンセプトは忘れられています。メルケル時代に、独が進んだのは、ドイツ語学習の義務化、ドイツ語能力によるフィルタリングというような方向で、統合こそが、多文化主義アップデート版だ、というのが正確な解釈ではと思います。
Merkel erklärt Multikulti-Konzept in Integration für tot | Reuters https://www.reuters.com/article/world/us/merkel-erklrt-multikulti-konzept-in-integration-fr-tot-idUSBEE69F057/
Germany’s Angela Merkel: Multiculturalism has ‘utterly failed’ – CSMonitor.com https://www.csmonitor.com/World/Global-News/2010/1017/Germany-s-Angela-Merkel-Multiculturalism-has-utterly-failed
「統合」という語のニュアンス
多文化共生のアップデート版は「統合」だ、ドイツもそうだった。みたいなことは、少し前から日本語教育関係者の間でも、統合は同化っぽいから困ったな…などと内心思いつつも、ドイツもやってるし、海外の文献でも統合みたいな語が肯定的に使われているみたいだし、同化じゃないと言えばいいか、「統合」使うか、あの独が言ってるぐらいだし、ぐらいのかんじで使われてはじめてます。
しかし日本語の「統合」の語感は、後述するIntegrationというニュアンスはほぼ無く、学習によって馴化を促進せよみたいな、ほとんど同化政策みたいな認識のされ方をしている。2025年になって、日本語教育以外でも、日本国内でも外国人政策に反対する政治方面の人達の間でも「統合」が必要みたいなことを言い始める人達も出てきています。統合ならいいよ、みたいなかんじで使われてます。独の一般の人の認識でも、ドイツ語の学習とドイツ文化の学習がマストだ、ということでもあるので、あながち間違いじゃないかもしれない。
日本語教育関係者がこの転換を支持するならば、自然と、日本語学習は権利ではなく義務であり、在留資格の取得や延長(当然永住も)ハードルとして課すべきだという考え方を支持することにもなります。CEFR=日本語教育の参照枠=複文化みたいな路線とは明らかに違いますが、元々複言語も複文化も文言としてイイネをしたぐらいの認識しかなく、具体的な政策に落とし込もうみたいな動きもありませんでしたし(国内の外国語教育で複言語的な主張をした人はほぼいなかった)、もうほぼ無かったことになってます。
どちらかというと排外的と呼ばれる人達の間でも、(就労系の在留資格廃止は現実的じゃないし、与党になるなら引き継がないといけないことは薄々分かっているので)じゃあ「外国人の統合政策だ」なんて言う人も出始めている。「政策」となると完全に外国人をコントロール下に置くような、管理するような語感がむきだしになるし、確実に一般の人にはそういう語感で受けとめる。本来の語義とは違うけど、その違いは結構都合がいいということになってます。
都合がいい語義の曖昧さ
ただ、独の「統合」は英語と同じ語源の Integration で、Assimilation(同化)とは、明らかに違う語として存在し、双方向性を前提とした社会的包摂みたいな意味のはずで、日本語の「統合」から受ける一般の人の語感とは明らかに違う。これは、国で採用した「合理的配慮(Reasonable Accomodation)」も似たようなことになっていて、Reasonableの双方向性というか、互いの合意が前提みたいなニュアンスが落ちて、配慮をしましょう、こうやりましょうというような、一方通行のノウハウとして意識される日本語となっている。本来違うんですよ、みたいな注釈が常に必要な時点で、ほぼ誤訳だとして、違う表現を考えたほうがいいと思うけど、一旦省庁方面で用語として使うと決まったら、もう覆らない。
こういう双方向性が落ちてしまうのは、翻訳をあてた際の無神経さによるものなのか、あるいは省庁主導だったからなのかはわからないけど、結果として、この違いは、上手いこと為政者に利用されているという側面がある。統合や合理的配慮だと、あくまで主体は強者(数の問題ではないのでマジョリティとは呼ばない)の側にあり、そういう語感のままのほうが、定着しやすいし、双方向などというニュアンスを下手に入れると反発リスクがある、というような(外交で、外務省なんかも、時々、違う言語の語のニュアンスの違いをあえて使って双方丸く収めるみたいなことをします)。
「やさしい日本語」も、小中学校では道徳の授業みたいに扱われている。しかし、言うまでもなく、易しい日本語を提供することは、善意で施すことではなく、権利の保障として国がやるべきことのはずです。優しさというニュアンスを入れたことで普及したのだ、という省庁の手練手管みたいなことがあったように思います。
日本語教育の世界にとっても都合がいい「統合政策」
日本語教育関係者は最終的には「統合」でもOKとなるのではという気がしてます。
国内外の日本語教育政策に大きな影響力を持つ国際交流基金はかなり昔からドイツ式を主張していますし、就労系の特定技能の新しい試験で、国内の制度にも食い込んでいる。今後は、特定技能の2号など、高いレベルの試験も在留資格に紐つけたいようです。この路線は統合路線といってもよさそうです。日本語学習は権利ではなく、義務で超えるべきハードルだというスタンスと言えます。
日本における実質的な同化政策としての統合政策は、実は、日本語教育の世界主導で始まっているとも言えます。2017年にすでに特定技能はA2の試験を合格しないと取得できなくなったのは、安倍官邸と外務省で、勝手に決めたことだけど、日本語教育からは何も意見が出なかった。試験の合格なんかと紐ついたほうが、日本語教育業界は絶対に潤うことも隠し味になってます。これまでのように、日本語教育のサポートが無いよりも、ビジネスとして食い込む余地が出てきた。試験ビジネス、講習、など大きな市場になります。
CEFRの「社会的存在」というコンセプトも「同化じゃないんですよ」という注釈付きで、この実質的、同化政策的に組み込まれていくような気がしてます。構造シラバスよりも、Can-doシラバスのほうが、日本社会への馴化みたいなニュアンスを足すことは簡単です。実際に国際交流基金が特定技能の試験である国際交流基金日本語基礎テストに作ったJF生活Candoには、生活とうたいつつ、会社を軸にした人間関係の話題ばかりで、A2レベルでも会社の宴会での立ち振る舞いみたいなものがたくさんでてきます。
以下は、JF生活Can-doの一部です。



日本語教育関係者ですら解釈がバラバラの「社会的存在」は、日本「社会」への馴化を進めるための方策として拡大解釈され、読み替えられていくのではと思います。2017年以前から、すでに就労系の送り出し国で、日本の企業文化を徹底的に教えていますみたいな日本語教育機関が多かったので、下地はあったとも言えます。日本語の「統合政策」が実質的に同化主義的なものであっても「本来統合はIntegration ということなんですよ」という理屈をエクスキューズにして、統合政策下で役割を果たします、みたいなことになるのでは。
統合政策のための「認定」と「登録」
統合路線は、国が認定日本語教育機関を統合機関のひとつとして位置づけることで完成しそうです。統合の定義は曖昧なままでも、統合という日本語が持つニュアンスの幅は、そのまま解釈の幅になるので、その時々の政権によって、日本の習慣を学ぶ授業を30時間やれ、とか、その授業の資格を別途作るとかは簡単にできる。認定の更新ができないよと言えば従わざるを得ないですから。登録日本語教員の学習項目に入れれば、当然、みな従う。ちょっと前までは自由だった教え方やシラバスも国がやれと言われたら従う業界なので、簡単にそうなるのでは。
留学生の9割はアジアからですし、国歌までは歌わせないけど、国旗ぐらいはどこかに飾れくらいは言うかもしれない。業界では、統合路線へのアジャストメントが生き残る道ですからみたいなセミナーが増え、「統合路線の入門本」が増え、コンサルが取り入れ、ユーチューバーが合格ノウハウを解説するみたいなことになる未来が見えます。
認定制度に、日本語教育の参照枠ありきだという建て前で、日本語教育の内容までの関与を認めたのは、2010年代にこの制度を作ってきた人達なので、日本語教育関係者が自ら善意で舗装した道だとも言えます。
多文化共生 対 統合という図式も?
統合という訳語の行方は、2つありそうだと書きました。つまり、例えば、自民党、維新、参政党の「統合路線」か、立憲、公明の「共生路線」か、と分かれる可能性もまだあるかもしれません。ネットでは、2025年の参院選前後から、「多文化共生」という語は、公明や立憲民主党のもので、反対だ、という空気になってきました。そうなると、与党=自民党、維新は多文化共生ではない路線としてのワードが必要になりそうです。ここで「統合」が採用ということになるかもしれません。
2022年の選挙では、自民はもちろん、維新も多文化共生大事ですと言っていたわけですが、2026年以降は、多文化共生の意味は変わる可能性があります。
でも、今の政党は、どこも、外国人政策は、所詮、選挙用のテーマであって、本気で考えているとは言い難い。与党になるためには、安定した支持母体の確保が必要で、中小零細、農業、漁業、建設で、外国人が必要だとなっている以上は、外国人は必要と言わなければならない。仮に、新しい統合路線がうまくいけば、近い将来、与党を目指す限りは「統合」は、自民党も立憲民主党も公明党も参政党もみんなが賛成できる語として玉虫色に輝き出すかもしれません。
具体的な政策で何が提案できるか
多文化共生、統合、は、誰も厳密な定義をしないまま、都合のいい語として永遠に使われ続ける可能性はあるかもしれません。日本語教師養成講座ではそれぞれ違うのだ、本来の意味は~などと、頭の体操のテーマにはなっても、一般の理解が曖昧なままなので、共生も統合も同化も、結局、どこがどう違うのか、ずっと曖昧なままという可能性大だと思います。
結果、大事なことは、具体的な個別の政策をどうすべきか、ということに絞られます。日本語学習をどういう形で提供するのか、どのくらいか、いつか、誰が、どういう形か、主体は学習者か教育機関か、どう学習時間を保証するか、助成でやるなら助成の対象は教育機関か、学習者か、こういうことの細部に、違いが出てきます。
つまり、具体的な制度について「こうあるべき」と議論できない人が、いくら共生だとか統合だとか言っても何の意味もない。Can-doが変だったら、変だと言えるのは多分日本語教育関係者だけですから、外国人政策における日本語教育の姿はこうあるべきで、ここから先は関与しないみたいな線引きも必要になるのではと思います。
私は、例えば、認定日本語教育機関の認定基準に日本語教育の内容を絡めるな、という方向が正しいと思ってます。ここで線引きしないと、おそらく国内の日本語教育機関は、その時々の政権の外国人政策の駒となって動くことから逃れられなくなると思います。改めて強い線引きをしておくことが大事と思ってます。多分、今の空気だと絶望的ですが、そう思います。
私達の個別の日本語教育の政策についての考え方はここにあります。よかったらお読みください。