みん日まつり

日本語教育クラスタ | 2022年 | 2023年 | 2024年 | みん日まつり

このページは日本語教育クラスタにおいて、ある種の興奮状態になる数日間を「みん日まつり」と名付け、顕著だった2017年、2021年、2023年を記録したものです。2021年までは原則として「記録」というスタンスでしたが、その後も小さいものを含めて続くので、2023年の第三弾で「どこがどう問題なのか?」をきちんと書くことにして、この件の記録も終わりにしました。

いつか「あの時代はどんな空気だったのか」を振り返ろうとした時にこの記録が役に立つことがあるかもしれませんし、何より、これからSNSを活用しようという人に役に立つとうれしいです。



みん日まつり



「祭り」というのはネット用語で、炎上に似たある種の盛り上がりを総称してさす語です。(詳しくはこちらを参照)教科書に対する一部の日本語教師の考えが反映されている出来事ではあるので、2010年代後半から2020年代初頭にかけての記録的な意味も込めて整理してここに置きました。

文中に出てくる「*」は注釈ありという意味です。クリックするとこのページの一番下にジャンプします。読んだらその注釈の文頭の「*数字」の部分をクリックすれば元のところに戻れます。

👉 ちなみに、これを書いている人間は、90~2010年代に日本語学校で働いていた教師達と話す機会は多かったので多少事情は把握しているものの、プライベートレッスン専業で、教室授業の経験はなく、みん日はほとんど使ったことがありません。サイトは97年から運営しており、SNSやブログなどで、まるごとやいろどりを新しい有力な選択肢として、ずっと紹介、推奨してきました。ただし日本語学校という特殊な環境では、どういう教科書、教え方がよいのかはわからないと考えています。

議論の前提となるデータ

2018年の国の調査を元にすると国内の日本語学校の教科書のシェアは以下のとおりです。カッコ内の数字は初版出版年、次の数字は使っている学校(稼働している学校、500校弱中)の数、%はシェア。

  1. みんなの日本語(74):338(74.1%):スリーエーネットワーク
  2. できる日本語(2011):31(6.7%):アルク&凡人社
  3. 大地(2008):18(3.9%):スリーエーネットワーク
  4. オリジナル教科書:17(3.7%)
  5. 文化初級日本語(87):15(3.2%):文化外国語専門学校編
  6. 学ぼう!日本語:10(2.1%):AIKグループ
  7. まるごと(2013):3(0.6%):国際交流基金
  8. はじめよう日本語(2006):3:スリーエーネットワーク

海外では各国で作られている母語での説明がある教科書(上の教科書群は基本、教室で、教師と、日本語で日本語を教える方法でやる、という方法論のために作られた教科書です)が主流で。みん日も選択されます。「まるごと」は基金が海外で運営している教室と関連の組織などで使われているかな?というところではないかと思います。

👉 これらの教科書の周辺環境(ここ数十年使われてきた教科書は何かとか、どういう区分けになってるかとか)に関しては日本語の教材事情を、それぞれの教科書がどんな教科書なのかは初級の教科書をご覧ください。

「祭り」の概要

ツイッター上で数ヶ月、あるいは数年に一度、「まるごと」の開発元である国際交流基金の50代半ばのベテラン上級日本語専門家(:@Honigon3D@Midogonpapa氏など1))主導の祭りが発生する。ツイッターの日本語教育クラスタ(ネット上で関心の対象が似ている人達の集団のこと)の風物詩となっている。

この「祭」は数日にわたり、その間

→ しかし、同氏は、その一ヶ月後、まるごとの優位性は「論文で証明されている!」と引用しているのも紀要論文ですし、磯村氏自身も交流基金などの紀要に論文を投稿しています。

👉 ちなみに、今の一般的な研究者の認識では紀要かどうか、査読が有る無しではなく、やはり内容次第という考え方が主流だと思われます。

以降、主に国際交流基金の日本語専門家によって同じような発言が続き、賛同者がイイネやRTをすることになる…

  • 「みん日はオーディオリンガルの教科書」
  • 「アンラーニングが大変なので新人は最初にみん日を経験しないほうがいい」
  • 「時代遅れ」
  • 「すでに過去のもの」
  • 「(オーディオリンガルが過去のものだと知らない人は)無知、無能(とは言わないが~)」
  • 「みん日ばかりの日本語教師養成講座は洗脳」
  • 「国内の日本語学校の教師は自分たちが業界の中心だと考えている」
  • 「本冊だけでは使えない不完全な教科書」
  • 「能試合格のみが課題ならコミュニケーションは目標ではないということ2)
  • 「(みん日は)能試対策にもならない3)
  • 「教師の負担ばかり多い」
  • 「みん日の準備の負担が多いから若い教師が定着しない4)
  • 「みん日の準備にかかる時間は無駄な苦労」
  • 「余計な準備がかかるみん日は日本語教師の酷い労働環境の原因5)
  • 「コミュニケーションできない学習者を生む」「何十年も前に廃れた教授法の教科書」「教師に好かれておらず皆渋々使っている6)
  • 「みん日しか使えない教師は日本語教育の専門家とは言えない」
  • 「みん日でしか教えられない教師は2/37)の現場で使い物にならない」

とざっくりとしたロジックで、かつコミュニカティブとは言い難いあおり気味の挑発的なフレーズで、みん日とそれを使う教師が、国際交流基金の日本語専門家によって酷評され続ける期間となる。2021年の祭りでは、挑発的なツイートに煽られた賛同者によって、みんなの日本語とその授業、授業を行う教師、学校に対して、井の中の蛙、不勉強、老害、レイシスト、詐欺と呼ぶようなニュアンスのツイートが乱れ飛ぶことになった。

みん日を使う教師は多いはずだがほぼ沈黙を守る。基本的に、異論をリプライしても、みん日は古いやり方で「それがダメなことは30年前に決着がついている」と議論するのもバカバカしいというスタンスのようで、「やれやれ」というようにあしらわれることになっており、少々強く反論すると「敵認定」されるのか、ノーリアクションでブロックされている人もいる模様8)

なお、祭り期間中の基金の関係者の発言は、オーディオリンガルうんぬんも含め、あくまで基金関係者の意見、切り取りであり、発言内容の真偽については本や複数の論文を読んだりして自分なりに検証し、可能なら教授法や第二言語習得理論などの本物の専門家に尋ねたほうがいいと思います。。

祭りの終わり

  • 祭り期間中は、主に基金関係者によって、みん日にポジティブな評価をツイートすると引用RTで血祭りにあげられ、時に関係者に囲まれメンションをつけて問い詰められる。賛同者からもエアリプで揶揄される。逆に賛同したり、まるごとをほめるとバンバン基金関係者にRTされる。これは平時でも基金関係者によって起きることがあるので、ここ数年、教科書関連の話題に直接SNSで言及する人は減り、リプや引用RTではない、エアリプの比率が増えた。昔は議論に参加していた人達も遠巻きに眺めるようになっている。結果、ツイッター上はマーケットシェアのわりにみん日に関してポジティブな趣旨で言及する人は少なくなりつつあるような印象。
  • 数日して、基金関係者から「悪い教科書というわけではない。コミュニケーションに向いてないけど」というフォローのつもりらしきセリフが出て、「ちょっと酔っていた」というようなツイートなどが出ると、そろそろお祭りが終わるという合図である。

👉 そもそも、みん日の前身である「日本語の基礎」は、文型積み上げ原理主義的な、2012年まで基金の看板教科書であった「日本語初歩」と違って、経産省が企業の研修用(技能実習制度ではない。単に日系企業で働く人達)に作った工場が舞台の「リアルな実用会話重視」の教科書として知られ、教師の育成を意識してマニュアルもしっかり作られた実用的な教科書として選択されていた。つまり、みんなの日本語も、他のほとんどの教科書と同じく、ほぼスタート段階からコミュニケーション重視をうたっているので「コミュニケーションに向いていない」と言い放つだけでは単なる悪口以上のものにはならない。結局、それぞれの「コミュニケーション」の定義や意味する範囲、ゴールまでの計画の違いを丁寧に語るところから始めないと議論にはならない。

2017年と2021年の空気の違い

2010年代後半にはすたれたが、巨大イベントとなった時は、ツイートのまとめが作られる時代があった。その種のサービスを利用してだれかが纏めるが、まとめる人によって編集方針があり、すべての関連発言が拾われているわけではない。

例えば、Togetterは、作成者によって第三者がツイートを追加したりすることを許可するものとしないものがある。17年版は期間中は自由に編集できたという記憶があるが、21年は作成者以外は編集できない設定になっていた。

このまとめ方も4年でかなり変わってきた。より内向きになり、公開の場での、議論は成立しにくくなっています。以下は、ツイッター上で起きた日本語の教科書についてのまとめです。17年のまとめをした人は、わりと中立的な立場を保とうという姿勢ですが、21年になると、ガラリと変わり、一方の色で染められるようなことになってきています。

17年のまとめはどちらかというと基金のスタンスに批判的な人によって作られているが公平に集められている。21年のまとめは、基金の側の意見の熱心な賛同者(=@officesatojapan)氏によって作られています。21年版には、後述する「(みん日しかやらない教師は)とっと淘汰されればいい」「(みん日ベースのセミナーに誘導するのは)詐欺」、自らの「(みん日信奉者の)レイシズムとの関係を疑うべき」というような自らのツイートは入れていない。

その他の関連記事:祭り直後書かれた記事など。

21年の祭りの直後に基金による JFND行動中心アプローチ2021 のオンライン研修が始まった。21年の祭りはこの研修の事前プロモーションだったのかもしれません。受講生は大幅に増えたそうです。

問題点の整理

一貫して、アプローチ(理論)メソッド(教授法)とシラバス(授業の設計)と授業の技術が混同されていて、議論の土台そのものが混乱しており、かつ、CEFR以降の20年間の、例えばシラバスや教授法だけが何かを解決するわけではないというような知見はほぼ抜け落ちており、例えば米国における近年の学習の個別化という流れにCEFR的な類型化に対するアンチテーゼ的なニュアンスがあることも抜け落ちたまま。

この議論の主役の50代が若い頃に強く影響を受けた90年代の議論の焼き直し的なものが延々と続く。しかしそれを知らない人には新鮮に映るのかもしれません。

しかし、この「祭り」は議論ではなく、議論を志向したものでもありません。この議論の主役達は、議論を求めているのではなく、演説がしたいだけなのは明らかで、結果としてタイムラインには、大声の、質の低い選挙演説みたいなものが一方的に流れてくる期間になります。少なくとも普通に勉強している人には新しい知見は無いけれども、経験が少ない教師には、なんとなく、専門家や修士や博士という肩書きの人達が確信をもって語っているのだから、正しく、新しい考え方なのだろうと考える人はいる。新たな知見はないと分かっている人でも、有力者が大声で語るのだから、これからそういう流れになるのだろう、という空気は作られる。

それこそが、この議論を起こした人達の目的でもあるので、効果はあるとして、延々と続いてしまう。ということかなと思います。

そもそも

* 基金関係者に、そもそも日本語学校でどう教科書を使い、どういう授業がされているのかという知識がほとんど無い。

のですが、そこを知るところから、あるいはSNSなので現場の人もいるわけですから、そこを尋ねるところから始めるべきですが、最初から議論の相手になるべき考え方、方法、人達は「こういうものだ」と思い込みで始まっているので、リアリティを欠き、具体性を欠いたまま進みます。

かつ

* そういう人達は「古く、頭がカタい人達だから話にならない」と、正面からの議論はしないよという意味を込めたファイティングポーズで始まっているので、実は対話は想定されていないこともわかります。違う考えを持つ人が参加する場所にはなっていないことは伝わるので、結果として、反論もほとんど来ず、議論は行われない。しかし、演説には都合のいい場所が形成されていきます。

他にも

  • 議論において主張の根拠として示されるエビデンス、データが恣意的であり、あまりに少ない(これはどういう方法でも同じ。昔も今も、日本語教育では、ある方法の成果などを検証するという文化が薄い)。
  • 印象操作のために新しい、古い、好き、嫌い、イヤ、面倒みたいな感覚的な要素もRTやイイネ、引用などで利用される。
  • 私だけでなく「みんな」もそうだ、という根拠のない誘導も行われる。

と、日本語をどう教えるか?という、検証やデータを参照しつつ行われるべき重要なテーマを、このように「議論が行われているように見せる」ことと「議論に勝っているようにみせること」だけで進めてしまう典型的なSNS議論の手法、次元でやってしまった罪は重く、以降、日本語教育クラスタでは、(少なくとも、まともに論文を読み勉強している人や、現場で試行錯誤している人達からは)教え方の議論は避けられるようになっていった。大学の研究者もせいぜい遠巻きに眺めるところまでになっている。(でもツイッターしか知らない人は、ツイッターの空気が日本語教育の研究の空気だと勘違いしてしまう)

今は国を問わず、教育において、若い人に、ロジカルな考え方、科学的な志向、データ、エビデンス重視の姿勢、国際的にも通用する議論のルール、フェアネス、方法を教えるということになっており、語学教育でも大きなテーマですが、この「祭り」は議論におけるルール違反の見本市みたいなもので、語学教師が行ったものとして、かなり深刻だと感じます。

👉 英語教育でも2010年代にSNSで教え方の議論が起こりましたが、引用される文献や論文、資料、調査の数は桁違いでした。

時代的な背景の補足

このページは記録重視なので、時代の空気の補足も書きます。このへんは、日本語教育関係者以外はピンとこない部分だと思いますので、少し補足します。日本語教育関係者でもしっかり理解している人は多くはないような気がします。

2017年以降の国内外の日本語教育関係の方針の急展開

国際交流基金は長いこと日本語教育活動は国外限定という規制がありましたが、2017年あたりから、第二次安倍政権の官邸周辺と近かったこともあって特定技能における新たな日本語試験(国際交流基金日本語基礎テスト)の主催者として日本国内の日本語教育に参入することになりました。当然、国内外の教室で「まるごと」を使いたいという意向もあるのではと思われます。この祭りは、ちょうどこの政策決定が、基金の関係者も含めた会議で進められていた最中に起きたことです。

JF日本語教育スタンダードが国の「標準」となるのはほぼ決定

詳しくは日本語教育の参照枠(2021)が決まるまでで書きましたが、2012年ごろから、国の会議では、文科省の英語教育の方針のブレーンでもある上智大学系の学者グループ(基金関係者がしきりに推す小柳かおる氏も所属)が推すCEFRを日本語教育でもやれ、ということになっていきました。

議論では「みん日」は「業界の空気で選ぶしかないという状況だ」「やむなく選択されている」ということになっています。マイノリティであり多少乱暴な物言いも許されるだろうというようなムードが作られており、マイナーな教科書(「まるごと」)が普及しない嘆き、業界の都合でみん日を強いられていることに対する問題提起という体裁になっていますが、実態は、2012年以降、国の日本語教育の方針の議論は、ほぼ国際交流基金関係者のペースで進んでおり、CEFRを事実上の「標準」とする施策が次々と決まりました。

結果、日本語教育の参照枠もCEFRの2001年版の翻訳をそのまま使うみたいなことになっています。

在留資格の取得、延長や日本語学校の抹消の基準になることで、国の日本語教育政策においてCEFR=JF日本語教育スタンダードが文字通り日本の日本語教育政策の「スタンダード」となり「参照枠」以上の影響力を持つことになりそうです。つまり、すでに基金が推進する'JF日本語教育スタンダード=CEFRに準拠するしかない状況が政治的に生まれつつある中での議論だった、ということはこの議論の時代的な背景として記録しておく必要がありそうです。日本語教育業界の人達はこういう空気に敏感です。周囲の「勝ち馬に乗る」というムードもあったかもしれません。

日本語教育の「標準(スタンダード)」?

おそらく、近い将来「まるごと」や「いろどり」は就労系の学習者周辺の日本語教育関係者にとって「在留資格(特定技能)の取得の試験と親和性が高いからしぶしぶ使う教科書」になるでしょう。就労系の学習者は、すでに日本国内の日本語学習者の多数派を占めています。日本国内における基金の日本語学習における存在感は圧倒的なものになる可能性は高く、文科省がCEFR推しということもあり、日本語学校の抹消基準にもCEFRが採用されました。

👉 特定技能のような就労専門の在留資格の取得の条件としてJF日本語教育スタンダードが使われるということになると、国の在留資格管理の政策のひとつとなり、国際的にもJF日本語教育スタンダードがCEFR準拠と説明するのは難しくなると思いますが、建て前上はJF日本語教育スタンダードはあくまで参照枠だという理屈で通すことになるのかもしれません。

追記

2021年の祭りでは、その後、関連のツイートはみん日批判を中心にちょこちょこと続き、じわじわとエスカレートし、みん日を使う教師の人格に問題があるというようなツイートまで現れました。

みん日信仰はカルト的 https://twitter.com/officesatojapan/status/1550819428563968000

日本文化への同化を外国人に強要するようなタイプが多い https://twitter.com/bike_nerd_tokyo/status/1371775078136909830

言語ナショナリズムやレイシズムとの関わり https://twitter.com/bike_nerd_tokyo/status/1381208193687162880

留学生が搾取されていることもみん日のせいだとみん日利用者を問い詰めるみたいなことになっていったことでしょうか。(いずれも、ツイート主は21年版のまとめを編集した人)(基金の「主催者2名」にもメンションを入れているので、基金の主催者達このツイートの趣旨に特に反対というわけではなさそうです)

👉 bike_nerd_tokyo氏と@officesatojapan氏は同じ人物。

基金の専門家がみん日のセミナーの主催者に詐欺だとリプライ

ついには、基金の村上氏は、文型(構造)シラバスをベースに新人の教師が文法事項を学ぶことにはある程度の合理性がある、文法事項の学習は重要だとツイートする、文法のセミナー主催者に対して、基金の日本語専門家が、「あなたのツイートは悪質な誘導があり法的に問題がある、詐欺で告訴される可能性がある」、とリプライやツイートをするような事態になっていきました。

👉 セミナーの紹介ページをみましたが、普通のみん日活用のセミナーでした。無料素材も多くて1回2~3000円とかなり良心的な価格でした。

その後

「学術的に決着がついた業界の総意」

その後も、基金の日本語専門家氏からは、ツイッター上で「オーディオリンガルは否定された方法で、みん日はオーディオリンガルの教科書で、みん日はオーディオリンガル的な手法で行われている」という主張はずっと続いており、学術的な議論は決着がついていて養成講座陰謀論 みたいなことからさらに学術的だけじゃなく、「何十年も前に議論も決着している業界の総意」ということになっている模様。業界の総意?

しかしたびたび引用する自身のブログ記事で引用されている論文には、教授法の流行り廃りに関する記述と、第二言語習得研究からのおなじみの猜疑(それはコミュニカティブアプローチはじめ、個別の理論や練習方法に対してもいろいろとある種類ものですが)が客観的に事実として書かれているだけで、オーディオリンガルメソッドすべてが学術的に否定されたとか、日本語学校における「みん日的手法」がオーディオリンガルメソッドに基づくものであるとも書かれていない。

👉 これらの日本語専門家の認識は、基金の公式の見解なのかもハッキリしない。

「ムキー!」

SNSのこの種の議論では一方が、間を置いて「ヤレヤレ感情的な反応ばかりで困ったもんだ的なツイート」をすることもよくあります。これがまた新たな煽りとなってしまいます。「ムキー!」とか書かなきゃいのに…と思いますが。

背景の補足など

教科書と在留資格

念のため補足しておくと、教える方法が、(学習者との関係性において)手法としてリベラルか、学習者主体か、というような視点はあったとしても、結果として学校や教師が教える手法や教材を選ぶ理由は多様で、教授法や教科書の議論でその人の政治的なスタンスや人格と関連づけて議論しても混乱するだけだと思います。

留学生制度の問題をみん日が背負うべきという理屈で考えるなら、特定技能の問題は国際交流基金日本語基礎テストを主催する基金が背負わなければならないということになります。それは行動中心アプローチの問題で、『まるごと』や『いろどり』の問題だということになってしまいます。特定技能でも、すでに技能実習生制度と同じ労働問題は起こり始めており、制度は変わっても、働く会社はほぼ同じなので、特定技能の人数が増えるに従って労働問題も増えるでしょう。その際「基金の生活Can-doは奴隷Can-doだ」というような批判が起きるかもしれません。教科書や教授法の議論はますます混乱しそうです。

しかし、基金が特定技能の制度の成否を担うつもりがあるのなら、それは評価に値すると言えるでしょう。行動中心アプローチは就労系の外国人の労働問題を解決できる可能性を秘めたものだという主張に従い、基金のCan-doに労基法関連を盛り込み、事前に労働関連の法律のレクチャーをし、来日後の「行動」をサポートする体制を作ることも必要でしょう。今後、労基法が守られていないというような報道が出た際は、基金関係者は技能実習制度に関して発言してきた同じ態度で厳しく批判し、ある程度の時点で問題が解決できないとなれば、責任を負い、日本語教育政策からは退くということもあるという覚悟を組織として示してほしいところです。

教科書の「政治性」

教える側と学習者との関係性においてリベラルか、とは別に、教科書がどのような(文字通りの)政治性を帯びているのか、という点に関しては、上記のような議論とはまったく逆の見解のほうが多いと思います。まるごとの書名は「まるごと 日本のことばと文化」です。本来言語とは切り離されるべき国名が入っており、言語と国の文化の関連、関係が示唆されています。たとえば英語の教科書が「英語 アメリカのことばと文化」というタイトルだと違和感を覚えるはずです。言うまでもなく言語は国の所有物ではなく、母国語ではなく母語と呼ぶようになりつつあります。言語と国と関連づけるということは一般書でもかなり前からされないことになっています。

JF日本語教育スタンダードにはそもそも理念に関する記述はほとんど見当りません。キーになる「複言語主義」というワードもでてきません。外務省は国内の言語政策を当然持っておらず、政策に関与することはできませんから、JF日本語教育スタンダートは、CEFRから言語政策に関することを換骨奪胎した形で作られていると考えるのが自然です。国際交流基金にも、日本の国力のための「ソフトパワー戦略の一環」で「日本のファンを増やすための」日本語教育の拡大という位置づけがあります(日本語パートナーズは「オリンピックの応援団を増やす」のが目的でした)。当然、まるごとにはCEFRとは違って「単一の言語主義の発想にとどまっている(西山 2010:ⅵ)」という批判があります。

JF スタンダードが範を求めている「「相互理解 10」の概念に関しても、何のための相互理解なのか、なぜ相互理解なのか。そもそも相互理解とは何か、という最も重要な点の議論がすっぽり抜け落ち(細川 2010:151)」ているという指摘があります。

👉 JF日本語教育スタンダードには理念がないことで逆に使い勝手がいい、という側面がありそうです。国も日本語教育の施策として採用しやすい、また基金も意識的に採用されやすいものとして国にプレゼンテーションした結果、今の状況があるということだと思います。

「みん日まつり」というのは日本語教育の世界で圧倒的なシェアを占める『みんなの日本語』(略称「みん日」)をめぐって、日本語教育の教科書のシラバスについての批判的な投稿が続く数日間のこと。先導役は日本語教育の世界で大きな影響力を持つ国際交流基金の準職員の日本語専門家です。その他、フォロワーが多い人が中心なこともあり、タイムラインも同じような投稿で埋まります。その空気に圧倒され、反論するみん日ユーザはほぼ現れません。考えが違う人はスルーして終わるのを待つしかないということになります。議論とも炎上とも言えないと思うので、ひとまず「祭り」と読んでいます。

私は、一貫して、この「祭り」は確信犯的に作られたアンフェアな空間だと考えており、こんなものに乗っかってモノを言ってはいけないと考えています。ネットがこういう風に使われることを残念に思っています。

ネット上にこういう一方的な記録だけが残るのはよくないと思いましたので、検索すれば違う見方、考え方も出てくるという状況を作るためにも、この記録と補足をしています。以降、文中では「祭り」と呼びます。17年、20年にに続き三度目です。時間があれば過去の記録も眺めてみてください。読んでいただければわかりますが、私はみん日派などではなく、肩を持っているのではありません。みん日はほぼ使ったことが無く、日本語学校で教えた経験もありません。シラバスや教授法のような重要な話しをこういう形でやってはいけない、というのが主旨です。

これまでは記録することで問題点が浮き彫りになるからそれでいいかと考えて記録重視でしたが、今回は「参照枠に準拠せよ」というような看破できない新たな誤りがあり、どこが問題なのかを、最後のまとめとして、特に日本語教育関係者ではない人達や経験が少ない人のために「言われていないけど前提とされているもの」とか「意図的に言及されてないこと」みたいなこともきちんと補足しながら、率直に書いて最終版とすることにしました。


これは、祭りの参加者に向けてとのリプライというより、日本語教育関係者以外の人達を含む、参加していない人達に向けての補足です。

文字数は約45000万字です。徒労に終わる予感しか無く楽しく書いたものではありません。これでこの件は長いものとしては最終版です。その先は自分で調べて、この「祭り」で語られていることと同様、ここに書かれていることも、検証して、自分なりに考えて下さい。自分で考えるための素材として書きましたので。

リアクションに対応はしません。書いて終わりです。作成後の反応は、時間があれば、この項目の一番下に記録としてリンクだけ置くかもしれません。

この項目は12月15日までに、掲載しつつ書かれチェックの後、28日に正式に公開しました。

↓ この右に▶がある青字のテキストは、クリックすると下に文章が現れ、再度クリックで閉じます。

 書き手のスタンスについて


背景

日本語教育関係者以外にもある程度わかるように背景を整理します。ここ15年くらいの日本語教育関係の事情はわかっているよ、という人はスキップしてください。下のタイトル群をクリックすると、下に文章が現れ、もう一度クリックで閉じます。

↓ この右に▶がある青字のテキストは、クリックすると下に文章が現れ、再度クリックで閉じます。

ここ15年くらいの背景の説明

【参考】教科書のシェア


以降、具体的に、どうやって、この祭りの空気が作られていくかを指摘していきつつ、問題点を書いていきます。

本論

基本、時系列で記録しつつ補足をいれていきます。過去の前回、前々回からの引用も典型例として時々も引用しつつ、この祭りの主要な問題点を整理します。過去のSNS投稿の引用は引用部分の一番下に日付が出ています。



議論ではなく演説

この祭りの、おなじみの日本語専門家の人達(私はID名から、「基金の恐竜アカ」と呼んでます)が登場して始まります。

すべての語学の教科書がコミュニケーション能力重視をうたう中で「コミュニケーションが目的じゃないなら、そういうやり方、教科書でもいいんじゃないですか?」という言い方は官僚機構の中で育まれた口調なのか、あるいは、こういう物言いが知的に見えると考えているのかはわかりませんが、最初から、対話は拒絶されたも同然の嘲笑気味のトーンで始まります。あとは、タイムラインに賛同の投稿が流れてきたら、参加が楽しい人以外は、もう眺めるしかないことになってしまいます。したいのは演説であるので、あえて議論にならないような空気を作ろうという強い意図が隠されていることも感じます。このへんはSNSを日常的に使っていて、煽るようなSNS的な物言いが普通だと思うようになると、見えなくなってしまうところです。

過去のまとめでも書きましたが、仮に誰かが議論を挑んでも「もうすでに確定している事実なので議論するのはバカバカしい」とあしらわれることになっており、そのことを見てきた人は、議論を挑んだりもしません。

仮に、国際交流基金がシラバス論争に決着がついたのは30年前(1990年)と考えているのなら、その後20年間に渡って、みん日の前身である日本語の基礎よりも文型シラバス、オーディオリンガル原理主義の日本語初歩を2010年まで基金のメインの教科書として販売、利用を続け、2010年まで文型シラバス教科書を元にした言語知識優先の日本語能力試験を続けて来た罪は重いと考えるのが自然だと思いますが、そこは無かったことになっています。


言うまでもなく、みん日、文化初級、げんき、そして、国際交流基金が出した日本語初歩などのシラバスで学んできた人達(これまでの日本語学習者のほとんどがこれに当てはまるわけですが)がコミュニケーション能力が欠けるということはなく、そういう調査もありません。結果が出ているのなら、そのまま使い続ければいいだけで、誰かにやり方を変えろと言われる筋合いはありません。民間の語学学校に、教え方を変えろという権限などは誰も持っていません。

この点が、様々な検証を経て、会話能力が問題だなというコンセンサスが出発点だった英語教育改革との大きな違いです。日本語教育では最初に現状、どこに問題点があるのかが議論されないまま、制度的な整備と共に教育内容の改革も始まりました。

海外にも日本語学校と同じような、大学進学目的の進学準備的な語学学校はありますが、豪州、北米などその種の学校では試験対策をゴールにしたカリキュラムがほとんどで、Can-doで実用会話をやるところは、ほとんどみません。そもそも北米など欧州以外ではCEFRの存在感は小さなものです。でもなぜかこれまでのSNSでの印象操作的な戦略が功を奏してか、日本語教育のSNSの世界では、留学の世界でも、CEFRとCan-doであるべき、という空気になりつつあります。

気になる細部

この投稿で引用された投稿は「文型シラバスを否定することと、文法研究を否定すること、全くもって同義ではないし、どちらも否定されるべきではない」だから文法を勉強します、という、どう考えてもまっとうな教師としての学習意欲を表明したもので、なぜ、わざわざ、これを引用して上のようなことを述べるのかわかりません。引用された人は、特に対応することはなく、以降、投稿は減っていますし、以降、リプでのやり取りもない。そして、祭りの参加者が、そのことを誰も気にしていないのも怖い。つまりこれは演説のために利用して引用RTしただけで、それも了解済みとなっています。

👉 「特に対応することはなく」→ その後の投稿はこの整理の一番下に追加しました。

「海外在住の言語オタク的な人」はコミュニケーション指向ではない人という意味のようですが、ハッキリしません。日本に住んでいて日本語を使う必要に迫られる状況ではなく、日本語ネイティブと話す機会もつもりもない、という意味でしょうか。しかし、マンガを読んだりネットを見るのもコミュニケーションの一つです。基金はサイトでも日本語学習の動機の多くはアニメマンガでありと日本語教育におけるサブカルチャーの影響を前面に出すことが多いのですが、個々の日本語専門家の感覚では「オタク」をコミュニケーションを忌避する人達で、視野が狭いというニュアンスで使うことが普通なのだな、ということもわかります。

引用した人はオカズとして忘れ去られる

そして、いつもこの祭りの序章で引用される人が、その後、どういう反応をし、どう考えが変化したのか、あるいはしなかったのか、には関心をはらう祭りの参加者はいません。単に何かをいうためのおかずとして利用されるでけで、始まりのゴングとして、各自、好きなことを言い始める。つまり、参加者にとっても、最初から対話は想定されていないことがわかります。この乱暴な引用が議論ではなく演説なのだという暗黙のサインになっている要素もあるんだろうと思います。

この祭りでは、いつも旧弊の象徴として生け贄になる投稿があり、その人達は、沈黙を守り、なかったことにしてスルーし、人によってはアカウントを消したりということになっています。リアクションすれば、SNS上で多くの人達に囲い込まれるようにアレコレと言われることがわかっているからです。

👉 こういうことが何年も続けば、みん日を使っている人達はSNS上では当然、口をつぐむことになるだろうということもあまり理解されてません。(あるいはSNS上でみん日ユーザーを黙らせるという効果も期待しているのかもしれません)もう日本語教育クラスタでは、日本語教育の世界のトップシェアであるみん日の実践の投稿を目にするのは難しくなっています。私は、それがとても残念です。


議論や対話を封じる仕掛け

同様の言い方は基金関係者に、よく目にします。以下は前回の祭りの際の投稿です。以降、前回、前々回からの引用も典型例として時々現れることをお断りしておきます。日付は投稿の下にあります。

日本語教育クラスタの人達に限りませんが「これが正しい」と言われると警戒する人も、肩書きがある人に「これは当然のことですが~」と前置きとして言われると「そうなのかな」と受け取る人は多いです。日本語教育関係者(特にSNS上のクラスタ)肩書きが強い人には弱い。SNSによくある現象ですが、自分が信頼する専門家のことを信用するというスタンスにしておけば、自分なりに考えたり調べたりしなくても済む、みたいなことがあります。通常、それは自分の不得意な分野のことで、自分の専門分野では例外で、自分でジャッジするよ、と考える人は多いのですが、そこも他人に任せてしまう人もいます。

それを見越して、自分の肩書きを意識したうえで、「このことは当然ですが~」「こうであることは大前提として~」「~とわかっている」という語り方をする肩書きの強い人がSNSにはたくさんいます。そういう人は要注意であると考えたほうがいいでしょう。また、そういう風に語れば、なぜそうなのかを語らずに済みますし、前述のように「すでに確定していることだから議論は無駄」と議論も避けることができる。語る側にとっても便利ないろいろと好都合な話法なのです。

👉 こういう話法は、大学のディベートや議論の勉強では最初に怒られるところです。中上級指導の際は気をつけましょう。


 

薄い根拠

通常、日本語の教え方についての議論ならば、それぞれの考えの根拠を述べ、それらのエビデンスについてやり取りがあるはずです。しかしこの祭りでは、そういうやり取りは起きません。

おそらくこの祭りの仕掛け人が、議論にならないように注意しているのは、議論にするほどの根拠を用意しておらず、きちんと示すことができないからだと思います。基金では2023年に教科書を『まるごと』に変えており10年が経過していますが、まとまった検証やデータは出ていません。検証するという文化がないのでは、と思います。

データがないので理論的な根拠の話しになるわけですが、現在のところ、あるシラバスが有効であるという決定的なエビデンスはないと思います。

この祭りの登場人物のほぼすべては、教授法や第二言語習得研究の専門家ではありません。しかしネット上にはそれらの専門家の目もあるのできちんと語ることは憚られる。そこで「すでに決着がついている。やれやれ」とあしらうしかない、という対応になるんだろうと思います。これは、SNSの日本語教育クラスタのこの種の議論の大きな特徴で、怒りや憤りを表明しても、自らロジカルに説明することはほとんどなく、理由は「みんなが怒っている理由と同じです」となんとなく示唆されるだけということが多いです。半月もたてば、ほとんどの人は炎上した、盛り上がったくらいのことしか覚えていません。みんなが怒ってたから、怒られて当然なんだろう、炎上した人が悪いのだろうという印象だけが残る。



「聖典」

一応、定番として示されるものがあります。これらもきちんと説明されるわけではなく、雑に都合良く引用されるか、「面倒だからこれを読め」とするだけで、きちんと説明されることはなく、不勉強な人達であるとラベリングするための道具として使われるだけです。きちんと読み、議論すれば単純な結論にはならないものであるのに。

「文型シラバスがコミュニケーションに向いてない」の根拠として常に示されるのは『第二言語習得について日本語教師が知っておくべきこと』なのも同じです(前述しましたが、小柳氏は昔から基金の紀要に文章を寄せている人で、国の英語教育改革の中心になった政府御用達的な上智大学の言語教育センターの人です)。

しかし、一人の研究者の見解をもって第二言語習得研究曰くで語るのは無理があると思います。第二言語習得研究では、シラバスの優位性を最終的にジャッジするような記述は見たことがありません。基本、個々の練習(明示的な説明や入れ替え練習など)の効果の検証みたいなことが中心となっており、研究者が語るのも、仮説によって、そういう傾向があるとか優位性が濃厚だ、というところまでです。しかも、今の語学学習は、例えばオーディオリンガルというようなひとつのメソッドに従うやり方は存在しないので、ますます白黒つけることは難しいはずです。しかしSNSでは勝ち負けの議論になってしまうので、断言調が求められ、結果粗雑な議論になってしまう。しかし、粗雑さは、わかりやすさでもあるので、SNSでは歓迎されます。

第二言語習得研究の研究者が、検証結果に様々な留保をつけるのは、ひとつには第二言語習得研究が仮説としてあり、特定の条件下のものであるからということもありますが、このように安易に何かのジャッジの根拠として使われることも意識されていると思います。例えば、以下は、そういう趣旨の研究者による論文のひとつです。

外国語習得のウソ・ホント!? : 第二言語習得研究の成果から http://ow.ly/HZmc308W2YD

👉 第二言語習得研究の論文や記事は、ここで紹介しています。すべてオンラインで無料で読めます。色々読みましょう。


比較検証の論文

もうひとつ、みん日とまるごとを比較して、課題遂行能力について検証したこの論文もあります。基金の専門家にもたびたび引用されます。専門家は査読無しの紀要論文はダメと考えているようですが、私は内容次第だと思います。これは貴重な資料です。

課題遂行能力の向上を重視した初級日本語学習 : JF 日本語教育スタンダード準拠ロールプレイテストによる評価結果 | CiNii Research https://cir.nii.ac.jp/crid/1050011251822236672

その他、同じ著者によるものがいくつかあります。基金のサイトでも紹介されています。

活用レポート・論文 | JF日本語教育スタンダード https://www.jfstandard.jpf.go.jp/casereport/ja/render.do

文型積み上げ式シラバスによる 初級日本語学習修了者の課題遂行能力 -ロールプレイテストによる評価と質問紙調査の質的分析を通して- https://u-ryukyu.repo.nii.ac.jp/record/2008309/files/Vol3p055.pdf

以下引用です。

文型積み上げ式学習の問題点が指摘されて久しい(西口 1999,細川 1999 など)が,文型積み上げ式学習と他の学習法の効果を比較検証する研究は少ない。それは,問題があると指摘される学習法を敢えて使用して調査研究を行うことが研究倫理に反するためであると考えられる。山元(2016)の調査と本研究の調査の比較は,教育機関の事情により教科書が変更されるという好機を狙って実現したものであった。本研究の比較の結果の信頼性を高めるには,より多くの研究参加者を対象にした調査によるデータの蓄積が必要であるが,実際に研究を行うことは難しいと言わざるを得ない。また,今回の調査で「口頭のやりとり」の能力が比較できたが,読み書きや文法知識に関する能力の育成については比較できていない。

読めばわかりますが、口頭でのやり取りでは、まるごとに比較優位があるという結果になっています。しかし、当然、これをもって、みん日はコミュニケーション能力の育成ができないと言うことはできないわけです。日本語教育の世界では、初級からタスクベースでやるのという試みは始まったばかりですから、何の成功も約束されていません。。実験室ではなく教室で学生相手に行うことですから、今は、良い悪いのジャッジをする時期というより、慎重に(学習者は実験用のマウスではありません)、このような検証を積み上げながら、どういう効果が期待できるのか、あるいはできないのか、どういう改善があるかをやる時だと思います。

今のところ、日本語教育において、どういう教科書、シラバス、教え方が「科学的に正しい」のか何のエビデンスもなくきちんとした議論も、検証も行われていない。そして、重要なことは、このまとめで一環して書いている、仮にエビデンス競争で優勢だからという理由で、すべての学校や教師は、それに準拠しろなどと言う法的な根拠もないという点も強調しておきたいです。


議論のための仮想敵と現実のずれ

また、この主の議論でいつも批判の対象となる「文法説明→文型練習」だけで終わらせるという日本語学校は90年前後以降、ほとんどないはずです。90年代から続いている日本語学校は、当然コミュニカティブ論争の影響を受けており、日本語の基礎→みんなの日本語を使う人も(この教科書を作った人達でさえ)オーディオリンガル的な手法をそのまま信じている人達はいません。教科書は改訂を経て修正されており、日本語学校では教科書の他に、場面、機能シラバス的な様々な教材を使って練習をするので学校によってまったく違うものになっています。この「修正文型シラバス的手法」は、こういうものである、とは言えない状況となっています。

仮に、ただマニュアル通りにやる新設校みたいなところが、一部あったとしても、それはシェアが高いゆえ出てくる例外的なもので、タスクシラバスでもダメな使い方をするところは常に出てきますから同じことです。そこをアレコレ批判しても意味はないわけですが、居酒屋談義を楽しく続けるためには、ダメなサンプル、仮想敵として存在しないと困る、みたいなことなんだろうと思います。

しかし、この種の、実態は違いますよという反論にも、基金の専門家は、以下のような反論をするのも同じです。

多くの日本語教師が30年かけて工夫し、修正し、試行錯誤し、また、研究者が論文を書いてきた歴史をなかったことにして、元々の出自がダメだからダメなのだ、という理屈は、もう議論に勝ったように見せるための「はい論破」的な詭弁のたぐいだと思います。

そして、こういうスタンスは、基金が提供する「まるごと」や「いろどり」は、本来の意図どおりに使われなければならないという強固な考え方を反映しているとも言えます。基金のこういう原理主義的な指向についてはこの整理の最後にまとめています。


「みん日が効果的な教科書だと語ってセミナーをするのは詐欺」

上の投稿は、前回の祭りの際に、みん日のセミナーを行っている主催者に、突然したリプライです。みん日のような教科書が効果的だとしてセミナーをするのは詐欺にあたるという主旨でした。(当時で1回数千円の普通のセミナーでした)、村上氏はこれに続けて効果が保証されないんだから詐欺だとずっと問い詰めたりしてました。ここまで来るともう意味がわからないです。

👉 私どものSNSアカウントももう10年以上ブロックされていますので、氏の投稿の引用はここでしかできません。


養成講座洗脳論

これもよく言及されます

度々書いていますが、日本語の基礎、みん日の指導書には、少なくとも大多数の人達が、日本語の構造において、シンプルなものから複雑なものの順番として妥当だと考える順番で、日本語学習において試行錯誤されてきた妥当な文法説明があり、長年の学習者のつまづきとその対応が、その説明の濃淡という形で埋め込まれているわけなので、例えば養成講座などで、日本語教師が日本語を教える前提で日本語を学ぶテキストとしては最適なもののひとつであることは間違いありません。養成講座でみん日やその教師用指導書が使われるのは自然です。

ただし、問題は、唯一の教え方の選択肢として、みん日の使いこなしが教えられるということなわけです。これは、そもそも養成講座を担当することができる人が少ないということ。養成講座の主役であった民間の日本語学校が、講師を雇うコストを抑えるために自校の教師を、給料の補填という意味もこめつつ、採用しがちなことという理由が思いつきますが、養成講座を主催する日本語学校が使いやすい即戦力教師にしたいという意図があることも間違いないです。

ここは問題だと思います。しかし、上記のように、日本語学習を学ぶ土台としては優れていることと、多くの学校が使っていることは、養成講座で使われる理由としては正当なものです。

問題点をきちんと切り分ける必要があると思います。日本語教師養成では、違うシラバス、違う教え方をバランスよくやるべきであることは間違いないです(文型シラバスは海外でもシェアトップです)。しかし、だからといって、一方を採用し、もう一方を排除しろ、と言ってしまうと、また違う信者を育成するだけになってしまう。養成講座は信者の育成であってはならない、ということが大事なわけです。

この議論では、このように、議論の切り分けをしないまま、とにかくネガティブな印象への誘導が行われることが多いです。



授業の準備はシラバスや教科書とは基本的に関係がない

この種の議論でよく出る理屈です。これもあえて切り分けをせず印象操作的に使われるというものです。問題が多く、1度、きちんと書いておこうと思いました。


なぜか授業準備の話がよく出ます。授業の準備に苦労している新人教師は多く、準備の話しは、特に経験が少ない教師、若い人に共感を得やすいし、授業準備に報酬が設定されないという日本語学校業界独特の問題もある。従ってイイネも稼げる。同意の投稿も続くので議論の勝ち負けの空気作りには有利という判断なのだと思います。しかし、これもシラバスや教科書の優位性という本質的な議論とは関係なく、印象操作的であって、議論の混乱要素に過ぎません。

シラバスの優位性の議論と授業準備はほとんど関連性は無く、タスクシラバスでも設定する場面の準備や学習者の適正におうじてアレンジするなど、違う種類の準備の種はたくさんあります。日本語学校の準備の大変さは、デジタル活用なとによって、まったく違います。そして、準備が結果に結びつくかどうかもシラバスや教科書とは関係がありません。つまり本質からずれた話題です。


効率を議論することには意味はありますが、単に準備が少ないほうがいいというのも変な理屈です。結果を出すために準備が必要なら、それはそういう仕事なのでやるしかないでしょう。語学教師の他にも「準備8割」という仕事はたくさんあります。仕事において大事なのは結果です。結果を出すために必要な時間に対してきちんと労働とみなして報酬が支払われるべきというのは、労働問題であって、シラバスの問題でもない。妥当な報酬があれば準備が大変な仕事もわかった上で引き受けるということもあるわけです。

このように、勝ち負けの粗雑な議論において、「強そうな理屈、だいたい友達」的に連れてこられた理屈のせいで論点がズレてしまう、準備が少ないほうが楽だという本音にも引っ張られる。その意図的にずらされる論点に引っ張られて、問題に対する解像度が低くなってしまうという問題が、この種の議論にはあります。大事なことは、ある方法が、学習者の希望やニーズに沿ったものであるか、結果を出しているかですで、シラバスや教授法の議論は結果を最重要視して行われるべきです。

つまり、こういう準備が大変という話を教え方や教科書の比較で持ち出すのは「筋が悪い」議論といえると思います。筋が悪い議論は、ほとんどの場合、問題の切り分けが出来ていないことが原因です。

これも、たいした違いではないでしょう。議論に勝つためだけに針小棒大に語られているだけという印象です。「オーディオリンガルの時代の構造」とわざわざ書かれているのは実態は違うかもしれないけど、前述のそもそもの出自がダメという理屈のためでしょう。

「現時点ですでに現場の疲弊が指摘されています。」は、SNSでそういう声を聞いた、ぐらいのことを最もらしく一般論として語るこれも議論の勝ち負けのための無理な変換です。普通はしないもんです。書いても「報告を聞いたことがあります」ぐらいまでです。こういう細かい戦略的なレトリックをフォロワー数が多く肩書きが立派な人が何年も言い続けることによって醸成される空気というのものがあるんだろうなとは思います。そして、それは基金の組織の中では評価される仕事なんだろうとも思います。

みん日では、その日の学習項目を示すために、最初に導入として、場面などを示すことがあり、これをみん日のあるあるな風景として、小芝居(これも不要な嘲笑的なワードチョイスだと思いますが)と批判されますが、タスクベースであっても同じような場面の導入として同じようなことをやることもあるはずです。つまり、導入の有る無しも、シラバスや教授法は関係ありません。この投稿も楽しげにRTされていましたが、これも、シラバスや教科書の問題ではなく、単なる個々の学校や個人の手法の問題と非効率の問題だと思います。

準備の多寡と待遇を結びつけることのデメリット

繰り返しになりますが、これも的外れで、どう準備するかは、教える側の勝手で、それが非効率かどうかもシラバスや教科書ではほとんど決まらない。待遇は法律で解決すべきことで、準備は効率化で解決することです。こういう理屈は待遇問題の本質から目を反らしてしまうことにも繋がると思います。

しかし、おそらく日本語教師は本音では待遇問題を労働問題として正面から考えることから逃げたいという心理があるんだろうと思います。ハイリスクでどうしても現場で対立せざるを得ない要素もありますから。こういうちょっと論点をずらした切り口は歓迎される。業界経験が長い人は、労働問題として語らないことで、学会などで会う日本語学校の経営者に対する対面も保てます。

的外れでも、こういうことを、ずっと長年有名人が閉鎖的なクラスタで投稿しつづけると、そうなのかなと思う人が現れたり、そう思わないまでも、なんとなくネガティブな印象は残るみたいなこともあるんだと思います。

【参考】

[日本語教育関連の論文・資料 692] 授業準備にまつわる数字を探る | CiNii Research https://cir.nii.ac.jp/crid/1390001205781205248



民業圧迫

👉 「15年」とあるのは、10年だと「まるごと」や「できる日本語」は対象になるが、15年だと、ほぼ「みんなの日本語」になるからだろうと思われる。

基金の教科書はすべて税金で賄われています。しかし国内の日本語学校のシェアは2018年の時点で1%以下。海外の基金の拠点とその周辺で少し使われている程度だと思われます。普通なら初版で廃版。10年もつかどうかです。

部数に関係なく出版されつづける教科書

初級総合教科書は多言語化、ウェブ素材作り、改訂、と出版後も多くのコストがかかりますが、基金の場合、基本税金で作られ、部数に関係なく出版されつづけることになっている。今のところ2冊の初級総合教科書を出しており、それぞれ税金の出所が違う。

『まるごと 日本のことばと文化』

https://marugoto.jpf.go.jp/

国際交流基金の教科書『まるごと 日本のことばと文化』は、初級だけで6分冊。2013年刊行、初級総合教科書の中では本冊だけの価格だと最も高い部類で11660円(みん日は5500円)。年1万冊程度売れている模様(セットで考えると500~1000くらい?)。基金の予算で作られており、ウェブ上の副教材的なものや多言語化も税金で作られる。おそらく『日本語初歩』のように次の教科書が作られるまで出版されると思いますが、次の就労向けの特手技能の予算で作られた無償の『いろどり』との棲み分けがハッキリしないことになっている。無償の『いろどり』出版以降、まるごとに言及する関係者は減っている。

『いろどり』

https://www.irodori.jpf.go.jp/

『いろどり』には、特定技能の予算が流れており、無償で提供されている。今後も特定技能に関わる国の言語に関してはサポートが続くと思われる。

外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策(改訂)関連 令和2年度当初予算等について(単位:千円)によると関連の記述は以下のとおり。

テストの開発、実施、教材(いろどりのことではないかと思われる)、現地の教師育成なども含まれる模様。単位は千なので、合計、6億3254万1000円とのこと。定期的に開催されるので今後も億単位の予算が投入されつづけることになりそう。

多言語化と開発と普及にこれだけの予算が投じられる中、無料で教材と音声ファイルを配布できるところと勝負をする出版社は出てこないと思われるので、就労系の初級総合教科書のシェアは『いろどり』が取ることになりそう。これは70年代に当時の経産省の予算で『日本語の基礎』が作られた経緯と似ており(にほんごの基礎は、70年代に、開発は経産省系の団体だったスリーエー、普及は経産省の元職員が作った凡人社が担当することになった)就労系の日本語教育が目的であることも同じ。違うのは省庁と教科書のシラバスぐらいで、ほぼ同じ構図。日本語の教科書のシェアは国の予算次第で決まる構造は変わっていないと言えそう。

教科書のプロモーションの姿勢

日本語教師クラスタの中にいると気づかないのかもしれませんが、独立行政法人で、長年税金で給料をもらっている準職員が、自分のところで税金で作った教科書のプロモーションのために、民間のトップシェアの教科書をネット上で(しかも、論文やブログなど文字数を尽くして書いたものではなく、140字で言い放つような方法で)ディすり続ける、みたいなことは、他の世界では考えにくく、日本語教育の世界でしか起きてません。普通は、民業圧迫と批判されて終わりです。これも社会の常識として知っておくことは大事です。日本語教育の外の人はこの祭りの件を知ったら驚くでしょう。


あいまいな「コミュニケーション観」

基金の人に限りませんが、語学の世界における「コミュニケーション能力」はきちんと定義されることが少ないです。往々にして、話す能力偏重で、ともだち100人できる的なボンヤリしたイメージで語られます。快活に話す、プレゼンできる、みたいな…。しかし、一般的にコミュニケーションの定義には、当然読む、書くも含みますし、時代はますます会話よりも読み書き重視になっている、ということもあります。そもそも、どんなコミュニケーション能力を獲得したいかは、学習者が決めることで、教える側が強要することではない、というのが最近の考え方です(CEFRでもそうです)。「コミュニカティブ」という用語も、見直されるべきですが、日本語教育の世界では、基本、コミュニケーションは、80~90年代のコミュニカティブ論争の古いままです。

日本語教育の人達は、1度きちんと、現代において、コミュニケーションとは何か、どう定義されるべきか、教える側が勝手に学習者のゴール設定をしてもいいのか?みたいなことを議論したほうがいいと思います。

👉 コミュニケーション観のアップデートが必要という点は、ここに、私見を少し書いています。 コミュニケーション観のアップデート




よくあるタイプの投稿群

このお祭りを形作る投稿群です。だんだん、ネガティブな印象を与えるものは何でも歓迎、みたいな空気になっていきます。「やれやれ、困ったもんですね」というトーンで書かれます。

テーマは「準備が大変」「未習語警察」など、よく考えると、シラバスとは関係なく、すべての方法に共通するものですが、心理的に負担がありネガティブなものを結びつける。投稿する人はついでのつもりでも、実は、祭りの興奮を高める主要な要素でもあります。

上の退職ブログ、ネットで人気のよくあるタイプの退職ブログのパターンを踏襲したもので、転職サイトへのアフィリエイト付きです。しかも、かなり前の記事です。急に引用されてました。こういう何か言いたくなったことを言うための乱暴な引用も、よくあります。記事内には教科書の種類が多く、よく変わると書いてありますが、シラバスについては触れられておらず、「いまだに文型シラバス」は、磯村氏が、多分そうだろうと勝手に付け足したもの。繰り返しますが「勤務時間中に授業準備をさせない」は労働問題でシラバスとは関係ないんですが、こうやって何となく結びつける印象操作的なものだと思います。

あと、日本語パートナーズも全然関係ないでしょう。仕事をどうするかという話しですし、税金で賄われる期間限定の事業ですから。数日後、パートナーズ事業の継続が発表されました。氏は、当然、そのことは知っていたでしょうから、組織から宣伝しろと言われていたのかもしれませんが。



これも単に手間がかかる、みたいなことで「薪割って五右衛門風呂沸かす」と例えられてます。古さも隠し味にしたみたいなことなんでしょう。こういう話題になっていることについて、本格的に参加はしないまでも、ちょっと上手いこと言ってやろうみたいな投稿も多いです。「やれやれ(まだみん日やってるの?)」というトーンでまとめられた投稿群です。しかし、この薪で沸かす比喩は、準備の手間のことを揶揄してはいますが、ここでもシラバスや教科書の効果は語られません。



この種の議論ではいつも、この「魔改造」というようなタグイの嘲笑的な応援団による投稿が続くことも「あるある」です。これは自分の過去を自嘲気味に振り返るテイで、今の行為を嘲笑的に語る、というもので、これもこれらの改造の結果、上手くいったのなら問題はなく、いかなかったのなら改善するか変えればいいだけの話です。


野次馬投稿

さらに、もっと遠いところからの野次馬投稿も続きます。流れに乗って、上手いこと言おうみたいな、ことになっていきます。タイミングを狙って投稿し、まんまとイイネがつきます。



この人は、みん日をゴミくずと呼んで炎上してツイ消しをした人?です。いつも正面から論じることはせず、遠いところから茶化すスタンス。イイネが欲しい人なんだなと思います。こういう「応援団」の投稿も祭りを盛り上げる重要な要素となっています。

👉 【註記】とのことでした。当時、一応記録用に見に行ったら、翌日にはディスリ投稿群は即削除されてたので細かいところは確認できませんでした。当時のことはここにあります。上の表現部分には「?」をつけました。

ほんの数日前に、茶化すな、冷笑的な態度を示すなと怒りの投稿をした人物(詳しくは前の項目参照)も、話題が変わると、まさに冷笑的な態度で、こんな遠巻きに茶化すようなリプや以下のような投稿をしてしまいます(上の投稿の返信も参照)。

茶化すという行為はある種の批評性があるわけで、私は茶化すこと自体は悪いことだとは思いませんが、この種の身内でクスクス笑うみたいな茶化しは最もダメなタグイだという気はします。



この種の冷静さを装った投稿も毎回行われます。しかし、こういう投稿でさえ「ムキー!」などと、人を猿に模した最悪の例えで煽ってしまう。これに32ものイイネがつく。普段、差別的な表現に真っ先に反応する日本語教育関係者がそれをやってしまう。結局、SNSで発揮される正義はタイムラインの空気と気分次第なんだなとガッカリします。



もはや「少数派の正義の抵抗」ではない。

上のような遠巻きに眺めた茶化し投稿は、ざっくりトレンドは抑えてますよと示したい、ということかもしれませんが、深い洞察があるわけでもなく、経験から来る何かもない。また、この種の投稿も、根拠が示されないまま、祭りで語られていることは当然のことだという前提での語り方になっています。この祭りの空気の醸成に重要な役割を果たしており、そのことも十分に意識されています。一緒に踊ってますよ、というような投稿です。

こういうひやかし的な投稿は、一見、日本語教育の古く保守的なマジョリティに対し、「新しい」方法を主張する正義の少数派であるかのような体で、ある種のレジスタンス風味を帯びていますが、2019年の日本語教育の参照枠以降、今後の規定路線でもあり勝ち組であることは確定しています。国は(CEFRに準拠とは書けないので、急ごしらえの)日本語教育の参照枠に従って、A1,B1というような区分けにすることを決め。在留資格の取得と延長に紐つけられる。試験もこの認定を受けるために、この区分けにせざるを得ない。当然、国内の教科書もこれに沿って改訂することになります。実は、十分に自らの主張が時流に乗っていること、勝ち馬に乗っていることは十分に意識されてるはずです。15年前に主張していたならカッコよかったんですけどね。

注意点

日本語教育の専門家を盲信してはいけない

これは発信側の問題もありますが、受信側の怠惰も原因のひとつだと思います。自分で得たことを消化して、それが正しいか、あるいは間違っているかを検算して、どうなのかを考える、というプロセスをサボって、専門家が言うことを「多分正しいんだろう」とそのまま受け取るだけの人がSNSには結構います。前段でも書きましたが、SNSを使うようになると、自分の仕事でもそういうことをするようになる。重要なことも誰かに判断を預けてしまい、共感ばかりを探す。

そして、長年、そういう怠惰な人をみてきた人は、この怠惰を利用し、そういう受け取り方を見越して「先生の先生」になろうとする(「先生の先生ビジネス」参照)。放言しがちになり、専門外のことも語るようになり、だんだんウケがいい断言調になっていくということが起きるんだろうと思います。


日本語専門家

もう、これも書いておいたほうがいいと思うので書きますが、日本語教育の世界で、なんとなく基金の日本語専門家は、高度な日本語教育全般の知識があると考えている人がいますが、基本、コーディネーター職で、各日本語専門家で、論文を執筆している人は少なく、執筆の義務もないようです。日本語専門家は修士号の取得がマストとなっていますが、修士論文などはほぼ非公開で専門は不明のままです。当然、その修士号を取得した「(専門分野とまでは言えない)得意分野」以外では、一般の日本語教師と知識レベルは同じだと思います。日本語を教えた経験も時間数に換算すれば、民間のベテラン教師よりもかなり少ないことがほとんどだと思います。基金との関係は待遇は準職員ですが、契約関係は業務委託契約で、専門家同士のつながりは薄そうです。「同僚とか関係者が訂正してあげたほうがいいのでは」みたいな投稿もずっと放置されたままであることが多いですし。

もちろん、どんな人でも、関連の本や論文を引用して感想を書くのは自由です。自分の実感と近い、書かれていることをやってみた、などは貴重な記録と言えます。しかし、現役で論文を書いている人でないかぎりジャンルを代表して「第二言語習得研究曰く」と言う資格はないと考えるのが普通であり、大事な線引きです。このへんは、基金の日本語教育部門の人達の文化なんでしょうけれども、私が仕事で接する大学の研究者の人達とはあまりに感覚がかけ離れています。大学の研究者の人達は、ジャンル問わず、自分の専門のことでさえ発言する際は慎重です。断言を避け、実践に対する良し悪しのジャッジを避けます。

この祭りの登場人物だと

村上氏は、リサーチマップに登録は無く、論文を検索すると雑誌の連載以外出てきません10)。磯村氏は音声教育の専門家であるといえます。しかし、教授法や第二言語習得関連の論文や記事もなく、教授法や第二習得研究の専門家でもないと言えるでしょう。

つまり、これらの日本語専門家によって語られる教授法の解説や第二言語習得研究曰く~というものは、あくまで専門外の人の「感想」にすぎません。そのまま受け取るのではなく、自分なりに他の専門家に尋ねるとか、本や論文を読む、日々の実践の観察を通して、自分なりに検算していくべきものであると思います。

基金において、日本語専門家は、国内外の日本語教師の育成も担当しているようで、オンラインセミナーなどで、第二言語習得研究や著作権、AIなどの講師をしているようです。上の「9月 インドの日本語教師の研修?」でも書きましたが、わかりやすく断言してくれないとか、研究者が書くものは留保が多くて伝わらないなどと投稿していたりするのをよく見かけました。基金の第二言語習得研究の解釈や教師育成の空気はこういうものなんでしょうか?

ちなみに、政府系独立行政法人は、例えばコロナでは、尾身茂氏が理事長を務める「地域医療機能推進機構」がありました。世界的な研究者の集まりで、時には政府にも厳しく提言をする。基本的にこの種の政府系の行政法人は大学などの研究者によって組織されます。基金のように、研究関係なく、自前で「専門家」として認定するのは、開始時の70年代なら、まだ大学の日本語教育関連の規模が小さいので海外担当者育成の意味はあったと思いますが、今は大学で日本語教育関係の学部も大学院も研究者も十分に増え、他のジャンルとの連携も増えています。論文を書かない「専門家」を独立行政法人が作る意義は薄れているといえます。この祭りに象徴されるように、民間に圧力をかけたり、発言も専門家としては疑問が残る点も多々あります。名称を変更して、海外コーディネーター職として残せばいいのでは?という気がします。


👉 ちなみに、私は1997年からサイトを運営しデジタル関連の学習コンテンツを作っています。といっても、ICTに関しては、素人に毛が生えているくらいだとは思いますが、上の両者がネットやデジタルの深い知識を有しているとは感じたことはありません。残念ながら、基金にはデジタル、ネットの専門家は、少なくともネット上にはいないと思ってます。


大学などの専門家、研究者も同じ

これは他の専門家でも同じです。例えば以下の対談があります。日本語教師の資格のリニューアルに関わる重要な研究をしている人達の2020年の対談、つまり日本語教育の参照枠以後のものですがCEFRの理解と日本語教育への活用に関しての理解と知識レベルは今の一般の日本語教師のあまり変わらないという印象を持つ人は多いと思います。おそらくその印象どおりではないかと思います。

座談会:日本語教師の専門性を考える | CiNii Research https://cir.nii.ac.jp/crid/1390006210126243200

一般に日本語教育の世界において、日本語寄りの研究をしている人は制度方面はほとんど知らないこともあり、制度よりの研究をしている人は、日本語方面が苦手ということが多いです。発音の専門家が、文法は、日本語学校の専任講師よりも知識レベルが低いというのも、よくあることだと思います。おそらくは、修士号、博士号を持っていても専門外の知識では日本語教育能力検定試験でパスするかどうか、が正確なところであり、大学関係者も、そう思われていたほうがいいのではないでしょうか(ゆえに、下で示すresearchmapで専門を検索することは大事なわけです)。

特に最近は、人文系の研究者においても、統計、AIと、数学や英語の知識の重要性は増しているようですが、ほとんどの日本語教育の研究者は数学が苦手なようですし、英語のレベルも疑問です。CEFR関連文書は全文ダウンロードできますが、英語とフランス語のみでライセンスを受けないと日本語に訳せないため、実は日本語教育関係者には、あまり読まれていないと思います。そして、ICT関連の知識は、ほぼ絶望的で、これからもっとも大事な個人情報保護の知識もほぼ皆無といってもいいと思います。このジャンルでは一般の日本語教師のほうが詳しい人間はいるはずです。


知識ではなくスタンスが重要 

現役でそのジャンルで論文を書き続けているかが、そのジャンルの専門家かどうかの大きな判断基準であることは間違いないと思います。次で紹介するresearchmapで検索するのはマストです。そして日本語教育の世界でよく見かける「昔取った修士」にも、ほぼ意味はないと思います。修士や博士というものは、剥奪もされず更新しろとも言われない鉄板の既得権ですが、日本語教育の世界では、修士号とか博士号とプロフに書いてあるにも関わらず、通俗的な自己啓発本みたいなことしか言わない人も多数います。

大学の「現役の」研究者の人は、現役で論文を書いている以上、おかしなことは書いたり言ったりはできないというプレッシャーの中で生きているという自覚がありますから、自分の専門はもちろん、自分の専門でないジャンルに関する発言はより慎重です。たかがSNS上のブランディングのために、専門外のことについて、140字でパッと「ああ、それはこうです」みたいな安易な解説はしないことが多いです。知識が多そう、みたいなことよりも、こういうスタンスを持っているかどうかのほうが、専門家が専門家であるかを見分ける大きな目安になると思います。

👉 私は出版の仕事をしているので、研究者の方に執筆を依頼する際は、当然、専門分野の方にお願いしますし、その人が書いた論文だけでなく、そのジャンルの論文も読みます(もちろんちゃんと理解できないことも多いですが)。専門分野の専門家であることの凄さというものは日々実感しています。


何の専門家なのか調べる

ネット周辺には「なんでこの人が講師としてここを教えたりしているんだろうか?」というものもあります。「第二言語習得研究やインストラクショナルデザインの知見を日本語教育に生かす」というのも多いですが、それは一生かけて研究するテーマなのでは…という気がします。

今はSNSとかオンラインセミナーくらいまでなら、手元でアレコレ検索しながらでも先生役はできます。語学教師は、職業柄、知ったかぶりとか、わかっているフリを見抜くのは上手い方だと思います。以下で名前で研究実績を調べてみましょう。ちょっとでもアレっ?というダウトが増えてきたら、距離をおいたほうがいいと思います。

研究者をさがす - researchmap https://researchmap.jp/researchers

👉 ただ、基本、大学の研究者は専門領域に関する知識、見識は深く、幅広い関心を持つ人だと考えたほうがいいです。SNS上の「**に詳しい人として有名」みたいな人とは違います。うかつに SNSで議論を挑んだりしないほうがいいと思います。たまに、人にはわからないようにバッサリ斬られている人を見かけます。

👉 論文にもいろいろ種類があり、評価もさまざまです。そのへんは論文と研究者を参照してください。


対等に話しをしよう

日本語学校やボランティア教室で教えている日本語教師でも、資格を取得するくらいの基本的な知識があるならば、今はネット上で無料で論文を読めますから、勉強すれば、ほぼすべてのジャンルにおいて、専門家の専門外の領域の知識に近いところまでは到達することは可能だと思います。日本語教育というジャンルにおいて、実際に日々学習者と接しているというアドバンテージもあります。専門家、研究者の人達を過剰に先生扱いせず、誰かの信者になるのではなく、同じ日本語教育に関わる人として、現場で日本語学習者と対峙していることに誇りをもって、対等に、ざっくばらんに議論をすればいいと思います。

長年、日本語学校で多くの授業を行い、きちんと結果を出してきた人達は日本語教育にとって大事な専門家であると思います。しかし、往々にして、研究の最前線の人達も含め、そういう最前線の人達はネットにはいない。どんなジャンルでも、ネット上には、最前線の人達はいないことが多いと考えたほうがいいと思います。



(能力の高い)教師の確保がマストという危機感を持つべき

「高度な能力」は、タスクベースでより必要となります。タスクシラバスは、文型シラバスよりも教師の能力への依存度が高く、教師に求められるものが多いという理解のほうが一般的です。単純に考えて、タスクを表にしつつ、バックグラウンドで、学習者の日本語理解の構築を意識しつつ進めるわけですから、養成講座を出たての教師には無理です。文型シラバスの教科書は、昔から教師用指導書が手厚く、積み上げでチームで教えるので力がない教師の不足をベテランが埋めやすい、文型シラバスの提出順は、違う教科書でも似ているので、教師の入れ替えがあっても比較的対応しやすい、教師の調達に関しては楽で現実的という側面があります。

文型シラバスと日本語の基礎が選ばれた理由は、急拡大するニーズに対応できる教師を量産しなければならないという時代背景があったということを、2015年に書きました。このような現実のやむを得ない事情がシラバスや教授法を決めることはよくあることで、例えば、日本語教育で媒介語を使う教授法が、一定の効果が示されているにも関わらず取り入れられないのも、そういう教師を確保するのが無理というような理由によるものです。

国の文書にも散見されつつあるような「実生活に即した日本語」であるべき、なら、タスクシラバスに必要な十分な日本語に関する知識と説明のノウハウに加えて、必要ならば学習者の母語の知識も必要で、かつ、「教科書的でないリアルな表現」をきちんと分析できる能力も求められることになります。これはマニュアル的な教え方を超える、高い日本語に関する知識が必要です。語学教師は、教科書の教科書的な表現という制約に守られているという側面は大きいわけですから。

つまり、タスクシラバスは、対応できる日本語教師が作れるかという大きな壁に阻まれる可能性があります。こここそが、今後の最も大きな課題です。このことはそのうち顕在化するでしょう。制度ごとタスクベースに移行することになったわけで、これを支えることができるポテンシャルが高い教師の確保の策は無いまま、きちんと移行すればなんとか対応できそうな「古い教師」をカットするような流れなわけですから。

おそらく80年代には、この教師の供給を考えている知恵者がいた。しかし今は、教師の供給までを考えて施策が進められているかは疑問です。当然、日本語議連の議員はそこまで見通す日本語教育の知識はないし、日本語教育関係者は制度にコミットする気があまり無い。基金関係者は基本、省益が拡大すればそれでいい。結果、今の改革が破綻しても誰も責任を取らない可能性は大きいとみています。

Fon-F的な能力は、基本の先にあるもの

タスクシラバス転換を成功させるためには、ポテンシャルが高い教師を確保し、安定して経験を積んでいく事ができる環境作りが重要で、かつ、最も懸念されるところだと思いますが、このことに意図的に言及されないのも、この居酒屋談義の特徴です。Fon-F(Focus on Form)フォーカス・オン・フォームはタスクシラバスにおける文法への言及の重視というものですが、2000年以降、注目を浴びるようになったのは、どうやらタスクベースでうまい設計をしただけでは、限界がある、ということになったからで、修正タスクベースともいうべき考え方です。

良い設計があれば大丈夫というものではなく、「適切な時に、適切な説明を、適切なだけやる」という高度なスキルが教師に求められ、それ無しではタスクシラバスは成功しない、ということでもあります。基金の関係者が言う「教科書をベッタリやればいいだけ」というのは、2000年以降の修正の議論が反映されていないわけです。

Fon-F的な能力が、どういうものか、いろいろ議論はあるところですが(日本語教育の世界ではそういう議論はまだないですが)、基本、ひととおりの説明ができるという言語知識的なものがスタートラインで、それをどう適用していくかは、その先の話です。「ひととおり」の段階の勉強をする段階においては、勉強の軸にする教科書のシラバスは関係ないと思います。Fon-F的な能力というのは、一つの型を覚えましょうというものではないので。



日本語教師の育成計画は無いまま

私は、今の参照枠準拠的な延長線上で、「教科書をベッタリやればいい」「教師の能力は必要ない」という根拠なき楽観的な見通しでやってしまい、試験が変わり、教科書が変わると「はい、できるようになりました」的な授業が増えて、数年後、知識がまだらで中級以上に進めない学習者が大量に発生するのではと危惧しています。事前に察知し、修正するためにも、英語教育改革のように年単位での効果測定の調査をするべきだと思います。

国内の小中高の英語教師も国語教師も、新卒から60過ぎまで終身雇用で、会社(学校)が倒産することはほぼ無い、30代で年収500万代になりリタイア前は900万前後。校長になりたいならほぼなれて、なったら1000万円。退職金は最低2200万円。年金は手厚く、月20万以上です。 GIGAスクール構想の莫大な予算でICT化の整備をし、デジタル素材が大量に作られ、教師は勤務時間内に手厚いICT講習を受ける。この待遇が維持できるなら、国からあれをやれ、これもやれ、と言われても対応するかとなるでしょう。

しかし、教師として大学を卒業して別途資格をとって、その後やる勉強は同じ。しかも学習者の母語が変わる度に勉強する。いつ潰れるかわからない学校で非常勤を続け、運がよければ専任になれるという待遇で、デジタルに苦手な教師は放置されたまま、若い人に文句を言われるだけ。これでポテンシャルが高い人が続けてくれることを期待するのは無理で、多分、対応できる教師がいないまま、教え方は難しくなるわけですから、今の延長線上では破綻は必至だと思います。



日本語教育機関や個人の日本語教師は日本語教育の参照枠に縛られる必要はない

この第三弾では、日本語学校も日本語教育の参照枠に準拠しなければ、みたいな話しになっていました。正直、驚きました。これが、この長い整理を書くことにした理由ですので、少し多めの引用で補足をしていきます。


参照枠という言葉の意味がきちんと理解されていないことは、予感はしてました。ここ数年、一部の大学の日本語教育関係者や、日本語教師養成に関わりたいという中先生的な人達による、参照枠の標準的な拡大解釈という傾向も感じていたからです。2020年代の日本語教師クラスタは、従来いたJF日本語教育スタンダードのポジショントークをする人達に、新たに日本語教育の参照枠のポジショントークをする人達が加わったという印象です。このように安易に拡大解釈されがちという意味で、参照枠というコンセプト自体、かなり取扱注意のコンセプトであるということだと思います。



その他、古い体質の日本語学校を参照枠の理解度でフルイにかけろみたいな投稿もありました。こういう先走った誤った拡大解釈が。ここ数年のクラスタの空気を作っていった側面があったと思います。その結果、今回の祭りの参照枠準拠的な空気を生んだと思います。SNSは、日本語学校関係者も目にしているでしょうから、なんとなくCan-do対応しないといけないのでは?と追い詰められる空気になったことも理解できます。

なにより、すべての教育の手法は、自分が信じる正しい方法で行われるべきで、国などが大なたを振るってでも、そういう方向付けがなされなければならないという考え方自体が恐ろしいです。そういうことを語る人達が、すでにある種の権力と決定権を持っていたり、持とうしてしていて、すでに持ちつつあることも。


磯村氏はFacebookでも「日本語学校でもこれから「参照枠」準拠で教えなければならなくて、そのために国家資格をもった教員を認定するための試験なのに、前提がこんな前時代的な授業でどうするの?」と投稿しています。

上手くいっていない学校が方法を変える、しかし教務のコンセンサスが無く、変えられないということは、よく起きることだと思います。しかし、なぜ参照枠にそって変えなきゃいけないのか、理解できません。根拠無くこういうことを言う人が出てきたことが、今回の祭りの特徴でした。

日本語教育の参照枠は学習指導要領ではないですし、しかも参照枠ですから「準拠」する性格のものではないはず。欧州もCEFRに「準拠」しているわけではないですし。教科書も教え方や評価の枠組みも全部国に作ってもらうつもりなんですか?と思います。学生には「主体的な学び」とか「多様性」とか言っているのに。

法律整備のプロセスでも準拠するという言葉は出てこないです。今後、もし、そういうこと(参照枠準拠すべしと明文化されるとか、そうせざるを得ないみたいな流れ)になれば、日本語教育関係者はきちんと反対すべきでしょう。たまたま自分のビリーフに近いから、これをもって強制すべき、などと考えるのはオカシイのです。

現状でも準拠とも書かれてないですし、準拠的なニュアンスもないです。

日本語教育機関の認定制度の創設等:文部科学省 https://www.mext.go.jp/a_menu/hyouka/kekka/1421037_00012.htm

認定日本語教育機関に関する省令等の案について https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/nihongokyoiku_kikan_nintei_wg/wg_01/pdf/93901501_04.pdf


もし、参照枠に準拠しなきゃ!と言ってる日本語学校があるなら「そんな必要はない」「そんな法的根拠はない」と言えばいいだけです。みん日で結果を出していたのなら、何も変える必要はないはずです。うまくいってないなら教科書から変えればいい。それだけです。それ以上関与しようとするのは、余計なお世話でしかないと思います。

「みん日でcan-do化」的な設問(があったらしく、それが今回の議論の引き金になったということですが)に問題があったとしたら、単に余計なお世話だったからで、最初から不要なお世話だったという一点だけです。

日本語学校に、参照枠関連で課されたと言えそうなのは、参照枠以前(2018)に決まった、「1年で学生の7割がA2クリア基準」で、抹消基準が当時はCEFRだったものが、日本語教育の参照枠になっただけで、その他は何の強制力もないはずです。N5で入学し、1年560時間の授業で7割の学生のN4到達は、シラバス関係なく、普通にやればできるでしょう。たいしたことじゃないはずです。


参照という的確な語があるのに、わざわざ照らすなどというポエミーな変換をすることは意味の輪郭を曖昧にし、不要な拡大解釈に繋がるだけでしょう。この「骨抜き感」も、参照枠からの逸脱への批判が下敷きになっているようですが、試験の設問に問題があったとしたら、余計なお世話だったということに過ぎず、参照枠の精神が不徹底だったことではないわけです。参照枠はすべての日本語教師の救いとなる輝ける光源と考えているのなら、それは宗教的な境地なので、もう仕方ないですが。

👉 24年の1月にはrintarock1980氏にブロックされていることを知りました。今後、引用は難しくなりそうです。


日本語学校関係者にプレッシャーをかけたのは誰か?

「文型シラバスをCando化するような余計なお世話」に、あえて必然性があったかもしれないと解釈するなら、まさにここ10年、CEFR準拠、Can-doでやるのが当然でしょ、というような空気作りで外堀を埋められつつあるというプレッシャーが、現場に混乱を来しているという状況があるだろうと思います。日本語学校関係者は2010年代後半からジワジワと追い詰められている状況でした。このことも、この祭りでは意識されていない。殴っている側は気がつかないみたいな要素があると思います。

この項目でも、参照枠に準拠すべきというようなことを言う人はここ数年、グッと増えている。そういう放言が空気を醸成してきた側面があると思います。影響を受け、現場でもそういうことを言う人は多いんじゃないかと思います。根拠がないことを知った上で、そういう言説が広まるのは正義がなされることなので悪いことでは無いみたいなスタンスの人達もいるでしょう。

唐突な「日本語学校の抹消条件」

5年前の2018年に唐突に日本語学校の抹消条件としてCEFRが採用されたのも大きかったと思います。2018年は日本語教育の参照枠が発表される1年前で、すでにジェネリックCEFRみたいなものになることは、ほぼ確定してましたが、この議論自体、それほど中身は知られておらず、議事録を読んでいる人も少なかったと思います。まして日本語学校関連の行政に大きく関わってくると考えていた人は少なかったはずですが、突然、日本語学校をCEFRのA2でチェックし場合によっては、抹消をするということが、わずか3ヶ月の有識者会議で決まってしまいました。

私はこの決定は本当に乱暴だったと思います。関わった人達の責任を問いたいです。とりあえずCEFRにするけど、日本語教育の参照枠が確定したら、そっちにしますみたいな決め方も拙速で、なぜ、このタイミングで日本語学校関係者の意向も確認せずに決めたのか理解できません。でも、SNS上では問題視する関係者は皆無でした。

忘れられないのが、2018年の文化庁の有識者会議で日本語学校の抹消条件に突然CEFRのA2を7割クリアという条件が作られた時です。

結果をうけて、日本語学校関係者は混乱し、CEFRの本の著者を呼び、対応するにはどうしたらいいのか?と多くの質問が寄せられていました。「なんで参照枠なのに抹消基準なのか」という真っ当な質問もありましたが、印象的だったのは「国はどうやらCEFRに本気で舵をきったようだ。対応しなければ!」という空気に満ちていることでした。

分科会Ⅲ「今、話題の CEFR A2 って、何?」 突然決まってざわざわした中で行われた講演と質疑応答(2019年8月)

《会場からの質問への回答》回答者:奥村三菜子

https://www.nisshinkyo.org/news/pdf/20190821y.pdf

日本語学校関係者は、こんなにも国の意向に敏感なんだなと思いました。当然、日本語教育の参照枠を決めた人達など、何かを決める立場の人達は、法的根拠など無くても、方向性だけでも示せば、自分達が決めたことにほとんどの人は従うだろうということを、十分に知っているでしょう。


教師の確保問題が忘れられている

繰り返しになりますが、強調しておきたいと思います。

地域の日本語教室や就労の現場で、Can-do対応にするというなら、教科書から変えるのが最適解であることは間違いありません。ただ、地域の教室はボランティアで支えられており、高齢化で動きがとれないという中で、みん日に慣れた教師が新たなシラバスに挑戦するのはハードルが高い、かといって、新しいシラバスでやれる教師を確保するのも厳しい、ということもありえるだろうと思います。みん日のCan-do化は、そういうケースの提案としてはあるだろうと思います。最適解ではないけど現実的な方法として。

あるいは、日本語学校でも、結果が出ていないところは、教科書を変える選択もあると思いますし、日本語教育の世界がCEFR基準になり、能試がよりCEFR色が濃くなるなら、という焦りもあるでしょう。しかし、簡単に教科書を変えられないということがあります。これはよく語られる「上の無理解」だけではなく、シラバスを変えて対応できる教師を集められるか?という課題があります。これは、前項の「(能力の高い)教師の確保ができなければ終わり」にあるような問題を孕んでいます。タスクシラバスを十分にやれる教師を育成するのは、今SNSで言われているように簡単ではないからです。この「祭り」では、シラバスを変えれば解決するという根拠のない楽観がありますが、リスクは大きく、中でももっとも危惧されるのはタスクシラバスをやれる教師の確保です。成功している学校ほど、同じレベルの成功が保証されるかというプレッシャーを持つことになるのは当然です。優れた学校ほど結果を重視しますから。大学教育の世界でも、Can-do的な学習を支持するところは、私の知る限り、多くは無いですから、大学進学重視の学校は迷うところだと思います。留学生試験と大学進学重視なら、変えなくてもいいわけですが。

もちろん、例えば、日本語学校の中には、ベテランの非常勤が軸になっているところがありますから、それらの教師が対応できるか、という地域の教室と同じ問題を抱えている学校もあると思います。

もし制度が整備されたら地域でも教師に報酬が支払われるようになり、5年もすれば対応力があがると考えているなら、それまでの過渡期の方法として、地域で主に使われているみん日で先に変わる枠組にとりあえず合わせることができるよ、という意味もあります。しかし、おそらく地域の日本語教室に潤沢な予算が割り振られる可能性はほぼ無いでしょう。

いずれにしても、「参照枠の精神を浸透させなければならない」という使命感などを持つのは変な話しです。参照枠が作られている2010年代に策定の会議が行われている時には誰も話題にしていなかったですし(私はずっと追っていて議事録もすべて読みました)、パブコメも100以下でした。なぜ急に?と思います。もちろん、決まったからといって、日本語教育機関の認定にも教師の資格にも反映させる必要はないです。民間の学校だけでなく、地域の日本語教室でも、日本語をどう教えるか、学ぶかは、現場で決まる(「決める」ではなく「決まる」であることに注意)のが自然で正解だと思います。


参照と標準と準拠

参照枠を作るのに関わった人達は、明確に説明すべきだと思います。


JF日本語教育「スタンダード(標準)」と日本語教育の「参照枠」は違うもの

国際交流基金の日本語専門家に妙な「標準意識」があるのは、JF日本語教育スタンダードがスタンダードを名乗ってしまったことに原因があると思います。ラウンドテーブルでスタンダードでいいと発言した李 徳奉氏と、それを引き取ってスタンダードにしてしまった、ラウンドテーブルの委員や国際交流基金の関係者に責任があるといえます。やはり名称は大事だったわけです。その辺の事情は以下で整理しています。

なぜ参照枠ではないのか?


「日本語教育の参照枠」の問題点

これも、改めて書いておこうと思います。日本語教育の参照枠はCEFRの骨格をそのまま借りたものですが、決してイコールではなく、CEFR自体も現在の言語教育の世界で、絶対的なものではありません。この祭りで出てきた「魔改造」という表現を借りるなら、日本語教育の参照枠は今のところCEFRの魔改造と言っても過言ではないと思います。

  • CEFRの評価など骨格部分のほとんどを2001年版の日本語訳をそのまま使い。(ほぼパクリと言われても仕方がない)
  • 重要な前提条件である複言語主義については、文言だけで何もなく(国内言語教育へのコミットが必要だから?)
  • 学習者中心の象徴であるポートフォリオを重視せず(そもそも学習者中心主義というコンセプトはこれまでも今も、日本語教育には無いと思います)
  • と骨抜きにしておいて…
  • 在留資格の取得と延長にCEFR的な評価と試験の合格を紐つけ
  • 日本語教育認定機関の認定や日本語教師の資格の取得とも関連づける
  • と都合のいいところは、CEFRの理念に反する方向

という肝心のものは無く、あってはならないものはあるという、CEFRの魔改造版と言えるのではと思います。この点、大学の研究者は海外のCEFR策定の関係者や言語政策の研究者と議論してみるといいと思います。「2019年に日本語教育学会は日本語教育の参照枠を作った。ほぼすべてCEFRの2001年版の直訳で、試験もCEFR準拠になり、合否が在留資格の取得と延長に紐つくことになった」と言う勇気がありますか?

action-oriented approach についても、きちんとした解釈は共有されていません。実は、CEFRでも2ページ程度のコンセプトの説明があるだけで、どちらかというと、言語知識ではなく学習者中心であるべきで、進むべきベクトルの象徴として示されていて、具体的な方法があるわけではありません。結果、基金では、脱文型シラバス的な説明のみで留まり、タスクベースとしてのaction-oriented approachが具体的に検証され、検討された結果が示されるわけではありません。そもそも基金のサイトにaction-oriented approachに関する定義や骨格などについて書かれたものも論文もありません。これは、これから実践され、データを取り、検証していくものであると思います。

action-oriented approachについては、action-oriented approach(日本語教師読本Wiki]) を参照してください。

また、Portfolioは、学習者自身が目標設定をするツールだけでなく、Fon-F重視以降の言語理解構築のためのバックグラウンドでのサポートとして、また、学習履歴の活用を取り込むことで、タスクシラバスの伴奏役として重要度を一気に増したはずですが、そもそものCEFR理解が薄く、デジタル理解が皆無の日本語教育の世界では、複言語主義と同じく、なんとなく実現が難しそうなものは割り引いて作った日本語教育の参照枠では、存在感がまったくありません。これによって学習者自身が選択する権利も失われ、タスクシラバスの重要な下支えも無いままということになっています。

まとめと提案

ちゃんと書くことと記録を残すこと

この種の「祭り」が始まったのは、2017年からですが、23年に至るまでの6年間で、この祭りの登場人物の中で、この件に関連した論文を書いた人は、知る限り、いません。また、他の言語学や国語学では、はてなブログには、膨大なネット上の論争や議論に関するブログ記事がありますが、日本語教育では、SNSの延長程度の感想記事があるくらいで、改めて考えを書いたような長い文章なども投稿されていません。

今回は、まとめさえ作られませんでした。SNSは検索機能が弱く、半月も経過すれば、もう誰が何を言ったかはほぼ調べることはできません。ググってもSNSの過去ログは検索対象ではないので、出てきません。SNSの発言はクリック一つ削除できますし、アカウントを消せばすべて消えます。SNSのサービスが終了すれば消えてしまいます。

誤ったことを投稿しても、じわじわと主張を変えて投稿しつづけ「言わなかったことにする」「そんな意図で投稿したのではなかった」ということにすることは簡単です。SNSは投稿する時間がある人ほど有利な場所なわけです。

この部分を書いているのは、祭りの3日後の12月17日ですが、すでに話題は変わり、誰もシラバスの話しをしていません。

ちゃんと書くことをしよう、とまず提案したいです。短いフレーズで共感を集めるのではなく、ロジックで人を納得させないと、ほとんどのことは動きません。

論文じゃなくてもいいので、ブログサービスを借りて書くとか。といっても3000字くらいのSNSの延長のアフィリエイトブログみたいなものではなく、ソースや文献なども入れて書く、「みなさんご存じの」と省略しない。主張や提案を明確に書く。対応をしてほしいなら、しかるべき窓口に向けて書く。社会に訴えるなら投書欄でも地方自治体の窓口でもいいので書いてみる。ということをしてみませんか?

投書欄などは以下に少し整理してあります。

公的な相談窓口や通報先など


かやの外に置かれてしまった人達

このほぼ唯一と言っていい対話もあまり上手くいったとは思えませんでした。naotaro_nihongo氏は、議論の単純化で見過ごされているものを丁寧に指摘し、孤軍奮闘で、誠実に対応されていると思いますが、今回の空気では、かみ合ったものになるのは難しいと思いました。naotaro_nihongo氏がいなければ、もっと醜悪な演説イベントになってしまったと思いますが、そのことに気がついている人も少ないのではと思います。

今回は、これまでの祭りよりも最初から対話はより強固に拒絶されていたと思います。蚊帳の外となった人は年々増えていますが、今回は圧倒的に多い。


最初に引用されてしまった人みたいに、演説のオカズとして利用されてしまうのは気の毒です。気にするなといっても難しいでしょうけれども、この種の雑なシラバス談義ムーブは、定期的に開催されているわけですが、運悪く引用された人は悲観することはまったくないと思います。日本語教育クラスタは、第一線の研究者の参加も発言もほとんどなく、タイムラインは、日本語教育の考え方の一部を反映しているに過ぎず、長年のこの種の議論の結果、シラバスや教授法の議論からは距離を置く人がほとんどで、一方的な演説が起きるだけです。あなたへの賛同者は一見少ないように感じるかもしれませんが、あなたは、たまたま、ひいきチームのファンが集まって怒鳴ったり、太鼓を叩いたりしている周囲の人間がいる居酒屋に迷い込んだだけです。

SNSにおいて中心的な人物がいて、そこで作られる空間に、多少でも意味があったのは2010年代の半ばくらいまでです。議論が起きて、いろんな意見が出て、それぞれが尊重され、交通整理をする人が現れる。「集合知」という語が輝きを放っていた時代です。2015年以降、そういう空間は崩壊しはじめ、2017年ごろに完全に終わったと思います。2020年代になっても、SNSに輝きがあると語る人は、SNSにおいて影響力を持ち、それを行使したい人ばかりです。

日本語教育クラスタの始まりは2015年前後、SNSの黄金時代が終わった後に始まり、その日本語教育クラスタの中の、一軍っぽい人達、がこの祭りの主人公ですが、現在に至るまで、現場の最前線の教師や研究者からは距離をおかれたままです。日本語教育の世界では、自分の現場でがんばって成果を出した人が勝者であることは揺るぎません。SNSのことなど気にしないでください。


簡単に国に教育内容に関与させてはいけない

SNSの日本語教育クラスタをみていると日本語教育の法整備で、

  1. 国に日本語教師の待遇を改善してほしい
  2. 日本語教育機関をサポートしてほしい
  3. 参照枠の標準化で日本語の教え方も指導してほしい

ということになっています。しかし、最初の2つは無理で、最終的に残るのは、最後の国が日本語教育の内容に口を出す道だけです。業界のほうから、口を出して欲しいと言ってるわけですからほぼ無償で簡単に手に入る。日本語教育機関の認定と教師の資格取得が人質になっています。今、参照枠に準拠しろと言っている人達は、この道をきれいに整備しているだけだ、ということに気づくべきだと思います。

しかし、この流れは止められないという気もしています。参照枠「準拠」の流れで、利益を得る日本語教育関係者があまりにも多いからです。この記事も無駄になるだろうと思いつつ書きました。


根拠なき「学習者がかわいそう」はやめる

私は、日本語教育は、まだ学習者中心主義的な考え方に出会ってもいない、と考えています。日本語教育は、70年代からずっと「オレが考えた方法こそが学習者が求めているものだ」という話が続いています。これは教室授業主体で進める場所が日本語教育の主戦場だったことが大きく影響していると思います。従来の一斉授業を批判する人も、学習者のモチベーションを上手くコントロールしつつ学習者を操る式のもう一つの一斉授業の信奉者であるに過ぎません。CEFRにおけるポートフォリオへの軽視などもその現れだと思います。しかし、現在の日本語教育において、時々、借りてきたような理屈で「学習者にとってどうこう」という理屈が語られることがあります。いつまでもダメな教科書で学ばせられる学習者がかわいそうだという語られ方もよく見ます。しかし学習者が何を望んでいるかなど、誰も調査したことはないはずです。学習者の意向という曖昧で重要で移ろいやすいゆえに、その都度しっかり見ていかねばならないものを、勝手に都合良く単純化し、代弁し主張に織り込んいるに過ぎないと言えます。思い込みしだいで、勝手に学習者を代弁してよいのなら、どうとでも言えるからです。


肩書きや有名無名で判断しない

日本語教育の専門家、大学関係者は、自分の専門以外のことは「とりあえずトレンドだけ抑えて無難なチョイスをする」傾向が、他のジャンルよりも、強いように思います。とくに掘り下げて考えるでもなく、自分の専門にひきつけて考えることもしない。当然、ほとんどすべてのことは専門外なので、結果、あらゆる話題で、勝ち馬にのった野次馬的なスタンスの専門家が発言することになります。特にSNS上の日本語教育クラスタでは、肩書きを隠し味にしたセルフブランディングが行われることが多く、共感ベースでイイネを欲しがるようになると、よく知らないことも専門家として発言しはじめてしまう人が現れがちです。ネットにおける疑似科学系のアレコレの拡散は、ほとんどの場合、そういう修士号、博士号の所持者によって行われます。

セルフブランディング的な発想でSNSを活用する人達は、間違いの指摘や批判を受けると、自分のブランディングが毀損されると考えるので、まっとうなやり取りにはならず必ず面倒なことになることもあり、誰も間違いを指摘しなくなります。「間違えたら死ぬ人化」しやすいわけです。特に肩書きがある人で、実名やクラスタ内ではうっすら知られている半匿名みたいな人達は逃げ場がないのでそうせざるを得なくなる。そうやって生まれた裸の王様は日本語教育クラスタには結構います。


シラバスはそのうちオプション的な「単なるお節介」になる。

以下は、個人的にシラバスの議論に興味がもてない理由のひとつです。

学習順、提出順としてのシラバスという概念は、教室での一斉授業だけでなく、紙の本というフォーマットの制約によって生まれた要素も大きく、これは今の、紙の本を模しただけの電子書籍でも同じです。

学習者が学習したいことを自由に選び、その学習素材と適切な説明、練習などのサポートが自動的に紐つけられるようになる。E-Portfolioで学習者の日本語理解の構築状況も提示され、学習サポートにも活用される。そういう本当のデジタルネイティブの教材でないと学習者はシラバスからは解放されないとは思いますが、おそらく、これは、ゼロからAIが出来るようになるまで待たなくても、しっかりタグをふり、設計すれば今でも紐つけ式でかなりいいものが作れるはずで、そんなに遠い未来の話ではないと思ってます。

そうなれば、シラバスは、教える側のお節介として、オプションで提案されるセットメニューのひとつくらいの地位となり、シラバス論争みたいなものは、あまり意味がなくなる。どのセットメニューが選ばれ、どの程度成果をあげたか可視化されますから。「あの組織が作った『短期滞在生活コース』はここ一年の選択も3%で、上達スピード偏差値も50以下なのでカット」みたいなことになりそうです。

Fon-Fは、新しい手法でも概念でもなく、従来の方法をコミュニカティブに展開する工夫の中で、優れた教師が行ってきたものを、Fon-Fs と対比して再定義することでタスクベースに最適化したものに過ぎないと思います。その意味でもベテラン教師を安易に切り捨てるのは愚かな選択なわけです。

Portfolioは、学習者自身が目標設定をするツールだけでなく、学習履歴の活用を取り込むことで、タスクシラバスの伴奏役として重要度を一気に増したと考えています。

学習者自身が選択し、いつでも捨てることができる前提の「お節介としての」シラバス作りなら、気楽に作れそうです。学習履歴の活用の鍵となるePortfolio があれば、安心感もあります。

しかし、このお節介メニューを考えるのは楽しそうです。企業のコンペに申し込んで勝ち残り、結果を出して高額の契約金を得るみたいなことをやってみたい気もします。



【提案 1】学習者による淘汰の仕組みが必要

すでに、あるものが長年の時間の経過でなかなか改善が難しくなった時には、やはり市場原理の活性化という方法が、もっともソフトでかつ有効だと思います。日本国内の日本語教育は、民間の日本語学校も地域の日本語教育も、市場による洗練を受けていません。これを試みる価値はあります。

もっとも学習者の意向を反映させる方法は、おそらく、民間の日本語学校の市場において、日本語学校の情報を可視化し、学習者が学校を選択する健全化を進める。学習者がよいと思う方法で納得がいく結果を出している学校を選べるようにし、そのことによって日本語学校が淘汰される市場の健全性を確保することです。日本語教育関係者以外の人には知られてませんが、今はそうなっていません。留学生は日本語学校を選ぶ際に、学校の基本的なデータを知ることができません。民間の日本語学校が学生を獲得する方法は、政財界のパイプを通じた紹介(パイプが太ければ在留許可も下りやすい)、そしてブローカーです。日本語を教える力での競争で選ばれているわけではありません。

この改善にこそ声をあげるべきです。

そのためには

  • 日本語学校の基本的なデータを国が多言語で公開すること → これは2017年に試みられてからストップしています。2017年には英語でも公開されていました。

をまずやることです。これまで法務省に届けてをしていたデータだけでも、定員充足率、能試の結果、進学先、進学率、専任、非常勤の比率などがあります。入学時から1年、2年でどこまで日本語能力が向上したかが明確にわかるようにするには、おそらく同じ試験を受験することにしてその結果を公開することもプラスすることが必要になるでしょう。

しかし、なぜか日本語学校関係者からやるべきという声は出ません。留学先の学校の実績がブラックボックスのまま、ブローカーが進めるままに進学先を決めることで、アルバイトで稼げる学校が選ばれるというような事態になってしまっていることは明白です。

地域の日本語教室にも「競争」を

同じ仕組みは、教育バウチャーの導入によって、地域の教室でも展開できます。ざっくり言うと、学習者に学習チケットを配布し、好きな認定日本語学習機関を選択する。集まったチケットは国や自治体が枚数に応じてその機関に支払うという仕組みです。チケットが集まらない教室は淘汰されます。実際には改善期間が与えられ、それでも改善しない場合は終了ということになるでしょう。

地域に拠点があることも重要ですから、軸は地域の教室としても、オンライン授業を展開するところにも、一定の枠を割り当てる。例えばチケットの7割は地元で消費することになっているが、3割はオンライン授業のところでも消費できる、というような仕組みです。これによってオンライン授業のビジネス展開も広がると思います。

おそらく賛成する人はいない

日本語学校は学習者によって選択されるという競争をほぼ経験していません。業界としてはなんとしても競争は避けたいという意向のようです。日本語学校の基本データの公開もおそらく業界からの反対があるのではと思います。地域の日本語教室も当然反対するでしょう。ボランティアでやってることなのに競争に晒されるのは不本意ではないと考えると思います。

おそらく大学関係者も反対すると思います。基本的に教育に競争はそぐわないという考え方が強い。

私は、公的な日本語教育サポート作るべきだと長年主張してきましたが、そういう声もほとんどでませんから、おそらく無理です。地方経済は疲弊しており、法律は国の責任を明確にしていません。

現状のまま日本語教育の質を改善するためには、上からの改革ではなく、市場原理を活用した下からの改革のほうがスムーズに進むと思います。教育バウチャーと地域の企業の法人契約でビジネスとして成立するやり方はあるはずです。

何より、学習者が選ぶことで日本語教育の改善が進むことは理想的です。日本語の教え方もシラバスも、学習者の選択によって検証されることにもなります。

実現は茨の道ですが、おそらくこの競争原理の導入で最も利益を得るのは日本語教師です。日本語を教える力が日本語教育機関の存続のカギを握るわけですから、日本語教師の方々には、ここの改善にしっかり声を上げて欲しいです。

👉 バウチャー制度の活用については ここに少し書いています


【提案 2】実際にやってみてどうだったかのシェアと検証をしよう

今の日本語教育の世界は、骨格となる日本語に関してはほぼ同じ文法解釈ですし、シラバスや手法の違いを超えて日本語教師同士でシェアできることがほとんどのはずです。しかし、残念ながら、SNSはそういう場所ではない。ネットを建設的で役立つ場所にしたいです。

この種の議論に限らず、ネットが、ある方法の有効性を主張する場となってしまい、「やってみて上手くいった」という投稿が空気を作っていくことがあります。SNSでは「授業が盛り上がった」「学習者が楽しく取り組んでいた」というような投稿がありますが、私はこのことにも懐疑的です。楽しく盛り上がればいいだけならマリオカートでもやればいいわけで、適任者は他にもいるし、これまでも地域のボランティアの方々など、いたはずです。日本語教師がプロとして関わるなら、日本語学習の成果を意識したもので、その効果をきちんと測る目が必要なはずです。

この種の報告は、新しいチャレンジをした人は「上手くいった」と書きがちで、従来の方法は(他の人は上手くやっているのに)ダメだった、となりがちというバイアスがあります。そして何より、普段からひとつの方法の有効性を主張している人は、当然、上手くいった例しか語らないというバイアスがあります。失敗例はシェアされないものです。「こういう理想に向けて努力中です!」というのもSNSには多く、イイネがたくさん付いたりしますが、結果どうだったかが投稿されることは稀です。しかし注意深くみていると、結構な数の「アイデア」が1年も経たないウチに終わって消えています。

抽象的な議論よりも、今、自分がやっている試行錯誤を、ありのままの姿でシェアすることのほうが重要です。みん日の試行錯誤であれ、タスクシラバスの挑戦であれ、きちんとした実践のシェアです。教授法の大きな話しよりも、例えば、50音表や動詞の活用表でも、様々なアイデアがあるはずですし、授受同士の説明の文言や図だけでも、シェアし共有する価値はあります。ある発音が苦手な人の効果的な練習例、新しいカタカナ語のミニマルペア、などなど、ネットは最も、そういうことに適した場のはずですが、まったくありません。

そして、それは、やるなら、きちんとルールが整理された場であるべきだと思います。実践のシェアというものは、もうちょっときちんとしたものでないと価値がなく長続きしないと思います。つまり、ルールとテンプレが必要です。参考までに、以下にたたき台をまとめてみます。


 【参考】実践のシェアのルール案


【提案 3】SNSの外へ

シラバスや教授法は、日本語教師にとってかなり重要なテーマです。SNSでパッとわかった気になるのではなく、日々の授業で試行錯誤し、学習者を観察し、いろいろな論文を読みながら考えるのが一番です。

以下は論文アーカイブです。無料でネット上で読める日本語教育の論文は無数にあります。

CiNii Research https://cir.nii.ac.jp/

J-STAGE トップ https://www.jstage.jst.go.jp/browse/-char/ja/

Google Scholar https://scholar.google.co.jp/schhp?hl=ja

以下は研究者のアーカイブです。何かを断言的に言う人が現れたら、とりあえず名前で検索しましょう。

researchmap https://researchmap.jp/


あと、定期的にSNSに投稿していますが、クラスタの中から出ることも大事です。

以下は日本語教育「以外」のアカウントのリストです。 https://twitter.com/webjapanese/lists

以下はTogetterの(日本語教育関係者がほぼいない)日本語関連の議論のまとめです。



【参考】 国際交流基金について

基本的なことが知られてないことが多いようなので、そこから書きます。

日本語教育だけだとJICAなども含めると、予算規模は年間100億くらいだと思います。文科省はそれより若干少ないくらいでした。文化庁は10億くらいです。この他に、日本語パートナーズみたいなもの(300億)みたいなものがあります。安倍政権のお気に入りで、外遊の度に現地の日本語学校訪問となり、やたらと億単位の予算が付いたという印象です。特定技能への関与(2018)も安倍政権の基金への置き土産となりました。

法律があり、基本、国内では仕事ができないことにはなっていましたが、特定技能で日本への参入が始まりました。

独立行政法人国際交流基金法 | e-Gov法令検索 https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=414AC0000000137

教育行政とは言えない

国際交流基金は外務省の最大の天下り組織ですから、外務省と日本の外交方針の影響を強く受けます。日本語教育も海外における教育行政というものではなく、外交方針にのっとって進められます。米国だけ別枠で日本語専門家を派遣したりということも、教育行政というよりは外交戦略的なものだと考えることができます。

国際交流基金は、2000年前後までは文化交流が主でしたが、2005年以降は、日本語教育を前面にした戦略となっており、より外交方針の影響を色濃く受けることになっています。

基金のサイトでの国紹介などでは「親日」というワードが頻繁に出てきます。ザックリ言うと、政治的な志向などが軸でない日本外交は、基本的に親日が基本コンセプトといってもいいと思います。親日的な国にする、親日的な国を増やす、みたいなことです。特に、2000年以降、国の外交方針は、東アジア重視から、東南アジアから西アジア、中東のラインを重視するというもので、基金の日本語パートナーズなども、このライン上での展開となっています。教育行政として考えるならば、常識的に考えれば、日系が多い南米や豪州など、世界で均等に予算は配分されるべきですが、外交ラインを重視し、そこで日本語学習者を開拓するという投資的な発想で行われているわけです。

例えば文科省が四国にだけ多くの職員を派遣したり、日本海ライン重視で投資だと言って北陸の学校にだけ助成をすることことはあり得ないと考えるとわかりやすいと思います。

国際交流基金の日本語教育関連の方針は2005年に大きく変わっており、それまでの「海外の日本語学習者のサポート、下支え」から「学習者の開拓」に大きく転換しています。これも文化交流的なサポートではなく、日本語教育が、外交戦略のひとつに組み込まれていったということだと考えられます。詳しくは、このへんを参照してください。

日本語教育に対する考え方

政治的傾きとは別にして、国際交流基金というところは、基本的にシラバスや教授法に関して原理主義的な志向を持つ組織でもあると感じます。「日本語の学習方法には正解の正しい方法があり、それで行われなければならない」というような傾向です。そして、その都度、質の高い教科書を先駆けて作ってきたことも事実です。

オーディオリンガル+文型積み上げの日本語初歩を85年に出版。ライバルである日本語の基礎(みん日の元になる教科書)が、日本語学校からのフィードバックを受けて、オーディオリンガルを捨て、コミュニカティブ寄りに徐々に修正をしていく中、かたくなに初期の姿のまま2012年まで販売を続けました。2010年までは、主催している日本語能力試験は、原則、この日本語初歩的な言語知識中心の試験であり、大学など進学先が能試の結果を重視したこともあり、日本語学校が文型シラバスから離れることができない最も大きな要因となりました。

『日本語初歩』は、文型積み上げ系の教科書としては高い完成度があり、90年代は、大学関係者の間でも「日本語の基礎より日本語初歩のほうが質が高い」という意見が多かったと思います。ただ、日本語学校からのフィードバックを重視した日本語の基礎は教師用指導書を作り、多言語化を進め、日本語教育育成でも力を発揮し(日本語初歩は指導書も文法説明も出しませんでした)日本語学校業界に最適化することでシェアを拡大。日本語初歩は評価は高かったもののシェアはとれませんでした。

基金は、2005年に、CEFRを軸にタスクシラバスへの転換を計画し、2010年にJF日本語教育スタンダードを発表。2013年、日本語初歩の後継として「まるごと 日本のことばと文化」を出版以降は、一転して、CEFR原理主義となり、現在に至ります。

1985年から2010年までの25年間、オーディオリンガル+文型シラバス原理主義的だった体質を考えると、今後、あと15年くらいはCEFR原理主義から転換できない可能性が高いと思います。もうCEFRが発表されてから20年以上が経過し、米国など欧州以外はCEFRの存在感は薄かったりと、すでに決して言語教育の主流ではないという意見もあるのですが。

基金が理論原理主義的な志向になるのは、実際の授業経験の少なさが影響しているのではないかと思います。データをとって検証するほどの授業数がなく、日本語専門家の授業数も、民間の日本語学校の教師より(おそらく圧倒的に)少ない。初級から上級までをじっくり教えるということが無いので、中長期的な視点に欠ける傾向もあります。「まるごと」は2013年から10年、基金周辺で使われているはずですが、2023年現在、検証的な資料も出ていませんし、論文もほとんどありません。

基金の海外の拠点は、大都市にあり、そこに通う比較的裕福なモチベーションが高い特殊な学習者が中心ということもあります。日本国内の就労、就労的な留学生、本気の留学生とは、まったく別の種類の学習者です。ほぼ海外生活なので日本での生活関連の知識も薄く、仕事の日本事情関連のイメージなども古い。国際交流基金が特定技能のために作った 生活 Can-doは、A1で職場で使う日本語として乾杯の音頭が出てきます。

ただ、言語教育の理論というものは曖昧で、ある方法が有効であるというようなものは無い。結果、CEFRのような、政策的にわかりやすいエビデンスが有用なので、これを軸に、いうことになったのかもしれません。

👉 基金関係者は日本国内の日本語学校のシラバスや教授法の主流が文型シラバスなのは『みんなの日本語』が高いシェアを持っていたからだと主張しますが、90年代以降、日本語能力試験の影響力が絶大だった時代は、言語知識優先であった能試に教科書が準拠せざるを得なかったという側面のほうが大きいと思います。2010年まで引っ張ってしまった罪は大きいです。ある種の歴史修正主義みたいなものですね。


今のところ、基金の日本語専門家は、法的根拠がないことを知った上で、あえて拡大解釈して、日本語学校は日本語教育の参照枠に準拠しなければならないかのように発言し、そういう空気作りをしようとしているように見えます。そういう駆け引き的なことにネットが使われることにも、本当にウンザリしています。



「ドイツのように」に込められた野心

 国際交流基金の日本語専門家は、しきりにドイツのように日本も、と言います。ドイツのように公費を使って言語教育をしろ、という意味ですが、公費はドイツ以外のすべての国でも使われています。なぜドイツなのか? これには強い政治的なメッセージが込められており、外務省の戦略と国際交流基金の国内参入へのモデルになっていることが窺えます。

👉 ちなみにメルケルの発言は、もっと幅広いもので、言語教育の欠如が原因などとと言っているわけではありません。後で資料を示します。

豪州、カナダ、米国など、海外の主な国では国内の言語教育担当は国内の文科省的な組織、あるいは移民局が中心ですが、ドイツでは例外的に、国際交流基金と同じ系統のゲーテインスティテュートが国内のドイツ語教育を担当しています。これをモデルにせよという主張であることがひとつ。基金と同じような組織はゲーテインスティテュートの他に、英のブリティッシュカウンシル、中国の孔子学院など、韓国、スペインなどにもあります。すべて海外担当という位置づけで国内には関与しないというのも基金と同じですが、ドイツだけがほぼ唯一の例外です。

またドイツは2000年代に入り、移民政策で政権批判が高まり、法律改正で在留資格とドイツ語の能力の試験の合格を紐つけることになりました。2000年以降、さらにドイツ語の習得は大事だということなり、方向転換しています。

ドイツモデルは、在留資格と言語の試験が紐つけが結果として言語教育への大きな予算投入にも結びついている。しかも、基金と同じ組織が国内の言語教育を担当している、という国際交流基金にとっても都合のいいモデルなわけです。しかし、その他の国は、国内の文科省、移民局的な組織が軸となり国内の言語学者が政策作りを担当し進めています。僻地へのICTの活用なども含め、豪州などのほうが進んでいるといえます。詳しくは言語政策に関する資料・論文・記事を参照してください。

つまり「ドイツのように」というのは、公費を使うべきというだけでなく、言語教育は権利としての保障みたいな甘いやり方だとドイツは失敗しましたよ、在留資格と紐つけないとダメですよ、というような強い政治的メッセージが込められています。日本の政策は、現在、そのとおりになりつつあります。基金の専門家が他国の例に一切言及せず、政治的メッセージは表に出さずに、ドイツと公費のことだけを語るのは、わかりやすいポジショントークが隠されていると言えます。

👉 基金が国内日本語教育への参入に積極的になったのは2010年代で、後半からは基金の専門家も積極的にネットで発言するようになりました。おそらく基金の中でも2015年の海外学習者数の調査で初めての減少となったことを受けて、今後は海外は頭打ちで予算削減もありえる、で、国内参入をやらないと、という危機感があったんだろうと思います。

👉 ただし、ドイツでは、ほぼ無償で500時間程度のドイツ語学習が保証されていることが大きな違いです。単なる足切り基準として試験の合格だけを課したわけではないということです。長期滞在または永住に関するものに限り、かつ、議会でも反対があったすえ決まったことです。これも言語政策に関する資料・論文・記事参照してください)。



数十万人の日本語教育を担当する責任

特定技能は23年で15万人、今後、就労系の在留資格として統合されると、現在の技能実習生の40万人が加わり50万人超となります。この試験と教材の予算は国際交流基金に投入されています。責任は大きいです。

この祭りでは、常連以外の基金の関係者はいつも沈黙しています。このことをどう考えているのかはわかりませんが、基金の若い関係者に向けて書いてみます。

基金は2017年を境に日本国内の日本語教育に事実上参入した形になりました。特定技能の試験やいろどりには、特定技能の予算が使われています。特定技能が技能実習と統合されれば、50万人超の留学を超える規模の日本語教育に対する日本語教育の責任を負うことになります。

基金は、他の教科書を腐すのではなく、自分達が良いと思うやり方のどこが良いのかを、しっかり伝えることに注力すべきです。そして税金を使うプロジェクトとして、きちんと検証し、そのデータを公開し、率直に改善点を尋ね、「日本語の基礎」の製作者達がそうであったように、現場の教師と共に進んでいくべきだと思います。民間で、いろんな制約の中で頑張っている人達を嘲笑したり、古いやり方だと嘲ったりするところが作る教科書を、結果重視の民間で、示せる検証結果もないまま、民間の教師達は使わざるを得ないみたいな状況になりつつあるわけで、この政策に基金は強く関与しているのは事実です。

近い将来、まるごとやいろどりを「仕方なく」採用するところは増える。シェアは黙っていても増えるはずです。そういう人達が前向きに使えるように、サポートすることが重要です。

フェアな検証を

怖いのは、これだけタスクシラバスに転換すれば上手くいくのだという方針で進めているので、結果うまくいきましたという検証報告ばかり集まるのではないか、ということです。官庁には無謬性というものがあり、間違っても修正されない体質があります。今のところ、英語教育改革のように、客観的に数字がでるような検証が行われる予定はないので、上手くいったことにするのは難しいことではなさそうです。基金の紀要で、このみなと関連の数字マジック的な論文みたいなものがズラリなどというのはみたくありません。ちゃんと検証すべきです。こんな酷い生活Candoなども作ってはいけないです。

就労系の人達、地域の日本語教室、日本語学校で使って欲しいのなら、実際に使ってみて、こういう結果が出たということを示すしかないと思います。それが、それぞれの場所でどう生きるのかを伝えるしかないです。

当面の間、日本語教育の世界では圧倒的な影響力を発揮しつづけるんだろうと思います。SNSでアレコレ言うだけの人ではなく、きちんと説明責任を果たせる人が見える組織であってほしいです。

👉 あと、デジタル方面、著作権、ちゃんとした人を呼べないならもう関与しないほうがいいと思います。いろんな省庁で同じようなものを作るのは、特にネット上では無駄でしかありません。日本語関連では国語研が一番ちゃんとしてます。一元化、集約すべきです。

この整理は12月15日にはほぼ書き終えたものです。年末あたりまでを目安にその後の投稿で、主なものだけ貼っていきます。


そもそも論

https://twitter.com/minamiurya/status/1736366561902964854

https://twitter.com/yosuke_hash/status/1736589938320420969

以下はこの祭りで説明なく前提とされていることに関する重要な指摘だが、この祭りの参加者に言及されたり、イイネされることは、ほぼありませんでした。大前提が揺らぐと困ってフリーズしてしまう、ということなんだろうと思います。


業界をあげて

https://twitter.com/Midogonpapa/status/1739798431886147702

「業界とは?」というのはともかく、日本語の教え方が正しい方法で統一されなければならないという考え方が色濃く出ている投稿だと思います。


失礼しました

https://twitter.com/Umineko1848/status/1740655688727105773

当時のことはここにあります。いずれにしても関連の投稿群は削除され確認できないので、上の表現部分には「?」をつけました。ご指摘ありがとうございます。

https://twitter.com/Umineko1848/status/1740666660741427700

今回は三回目ですし、これ書いても今後も続くだろうと思いつつ書いたので、ただただ苦しかったですよ。いつの日か、承認欲求や私怨、利益目的以外の理由で何かを書こうという人は世の中には結構いるということを理解できる日が来ることを願ってます。アフィリエイト置いたら300円くらいは儲かるかもしれません。そのうち検討いたします。ありがとうございます。

上の投稿、RTしようと思ったんですが、@Umineko1848氏にはブロックされてました。


最初に引用された方の投稿

https://twitter.com/Chippi56765289/status/1740936198389150035


それよりも

https://twitter.com/route2490/status/1741250061542068310

日本語教育の世界では、リスクを負って何かをしても、いつも、こういう空気にかき消されてしまうなと思います。


義務教育での学習指導要領の件の報道と炎上

学習指導要領は「告示」で、従う義務があるわけではない、みたいなことがあるんですが、産経の報道はかなり拡大解釈をしたもので、それが批判された、という、この参照枠の拡大解釈問題と似たような問題です。しかし、この産経の姿勢に批判的な人も、告示でさえない参照枠の拡大解釈はノリでやってしまう。ここに矛盾とネジレがあることに気がついている人は少ないです。

https://twitter.com/search?q=%E5%AD%A6%E7%BF%92%E6%8C%87%E5%B0%8E%E8%A6%81%E9%A0%98%20until%3A2024-01-20%20since%3A2024-01-17&src=typed_query&f=top



結果、ブロックされたアカウント

第三弾のまとめの投稿以降、ここに引用した方々にかなりブロックされたようで、かなりの人達の投稿は読めなくなりました。ブロックというのは対象の投稿を読みたくないというミュートと違って、自分の投稿を読まれたくない、引用されたくないという機能です。今後の記録も難しいでしょう。

こうなるだろうということは…実は予想してました。それで最後のまとめになるだろうと書いたわけです。

@Midogonpapa氏からはもう2010年代はじめからブロックされていますが、23年は新たにJojiSensei氏、 @Umineko1848氏、@rintarock1980氏からもブロックされたようです。このへんの引用や、12月のみん日まつりの記事などが理由になっていると思います。

X(Twitter)の仕様に詳しくない人のために補足をしますと、相手の投稿を読みたくないのならミュートで間に合います。ブロックは相手に自分の投稿を読ませないという機能があり、そのための方法という意味があり、引用して何かを言われることを拒否するという色合いが濃いものです。かつSNSではブロックされた人は、アカウント停止のリスクが高くなり、アルゴリズム的にツイートが表示される頻度も下がるなどもろもろ不利益を受けることになります。

ちなみに私どもはスパム以外ブロックはしていません。誹謗中傷や暴言は例外としても11)、公開の場に投稿する以上は引き受けるべき責任があり、リスクも負う、当然、批判も受ける。間違いの指摘をされる状態にするためにも、すべての人が読める状況にしておくのがフェアだと考えるからです。もちろん、引用されることについても抗議をしたことはありません。

ここでも引用については書いていますが、一応、補足しておきます。SNSには外部埋め込み機能があり、ネット上で引用されることにも同意していることになっています。引用では事前、事後の報告が必要ではないということも、発言、引用の自由を保障するうえで重要なことです。書いた人が明確で期日もあり、リンクもある、全文引用という国際的な引用ルールにのっとっています。SNSは、純粋に自分発信で書いているものは少なく、基本、世の中の出来事、メディアの報道はもちろん、SNS内外のあらゆることを「引用して」何かを書くメディアと言っても良いと思いますが、このようにSNSの外から引用されて何か書かれると過剰に反応されるのはよく理解できません。

というわけで、上記のアカウントの投稿は今後、みることは難しくなりました。

👉 私は仕事のアカウントと非公開のプライベートのアカウント(仕事のことは一切書かない連絡用)をそれぞれ持っていて、投稿の閲覧ではアカウントを切り替えなくてもいいように、同じリストを共有して両方でみていますが、わざわざこのプライベートの非公開アカを探してブロックしていた人もいるので、とにかくもう引用して何か書かれたくないんだろうと思います。

👉 私は90年代から2007年あたりまではサイトもSNSも日本語学習者相手で主に英語圏のネットにいたので、こういう日本的な空気にいつまでたっても慣れません。


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1)
ツイッター上には20人程度は基金やJICAの関係者がいるはずだが、この2名を除き、祭りの期間は沈黙を守ることが多い。また、日本語専門家と国際交流基金の関係は雇用関係(=職員)ではなく、あくまで業務委託契約なので、日本語専門家系の発言は基金の見解ではないということになっており、いつも責任の所在はあいまいなまま。雇用関係じゃないので関係者ではない、業務として行ったことでも、ステマでも、民業圧迫でもない、という理屈?
2)
能試は基金主催で2010年から(基金主導でCandoなどを用いた)JF日本語教育スタンダード準拠(風)のコミュニケーションをはかる試験に変わったとアナウンスがあったのでは…
3)
後にまるごとは能試対策にも役立つのだ的なツイートもあり、ここでは能試に適応できていることをポジティブに評価している模様。
4)
「まるごと」は基金関係者の認識では「(数年かかるみん日とは違って)誰でもすぐに使える。教師にとって超簡単な教科書」ということになっているらしく、(業界として)教師の育成計画をどうするかという視点は最初からクリアしているということになっていることなどが発言からうかがえる
5)
みん日が本冊だけで完結しないのは、70年代から時代に応じて現場の声に応えるためにやむを得ず関連教材が膨れ上がり…という事情もあるので「本冊だけでは不十分」という批判は酷だし、本冊だけで、セットで展開しているという戦略の違いに過ぎないので本冊だけで比較しろ、というのもおかしな話。
6)
このツイッターアンケートが根拠になっている模様。しかし、教科書の採択は民間の日本語学校では教務を中心に決められるので最終的には個々の学校の自由意志だが、基金関連の教室はまるごとを含む基金以外の教材の選択はしにくいであろうと思われる。したがって「しぶしぶ使っている」かどうかという論点は微妙。
7)
この「2/3」はここの計算に基づくとのことですが、基本的な計算方法に誤りが多く、計算と推測が混在している記事。詳しくはこちらを。国内の告示校の初級教科書のシェアはやはりみん日が7割以上で圧倒的であることは確か。まるごとは0.6%
8)
私どものツイッターアカウント(@webjapoanesej)も@Midogonpapa氏には10年前からブロックされているので、RTがまわってきたり、まとめをみたりしないとツイートに気づかないことがある。他にも、氏に指摘をした研究者などがブロックされている。
9)
といっても、ホワイトカラーの人達だけでなく、いろいろです。英語でコミュニケーションできる人達が主でしたが、国籍はアジア、アフリカ、などいろんな母語の方でした。
10)
ただ、他の人の論文によると、「現代日本の対外言語政策理念の変遷」という論文があるようですが、現在、リンク外れになったままで、オープンアクセスではなく非公開のままとなっています。何か理由があるのかもしれません。
11)
私どもは2018年にX(Twitter)上の被害者として警察に相談し情報開示請求を行うみたいなことでした。も経験しています。当時、起きたことをまとめてブログでも公開していましたが、このブログや投稿をRTした人にも中傷が及ぶことになり、ブログは削除しました。